※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
※長編のため読み込みに多少時間がかかります。少しお待ちくださいm(__)m
[h2vr]
「心霊写真」
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の春だった。
僕はその日、バイト先である興信所に朝から呼ばれ、掃除と電話番をしていた。
掃除は鼻歌をうたっている間に終わり、あとは電話番という不確かな仕事だけが残った。
窓の方に目をやると、『小川調査事務所』と書いてあるシールがガラスに張り付いている。もちろん外から見てそう見えるように書いてあるので、こちら側からは左右が反転している。
何度目かの欠伸をした。
ぽかぽかした陽気に、昼前の気だるい気分。待てども一向に鳴らない電話。いったい自分がなにをしにここへ来ているのか、だんだんと分からなくなってくる。
デスクには僕の他に二人の人間が座っている。
一人はアルバイトの服部さんという二十代半ばの先輩で、この興信所では小川所長の右腕的な存在だ。
もう一人は同じくアルバイトの加奈子さんという、服部さんと同年輩の女性で、僕をこの興信所でバイトさせている張本人だった。
オカルト全般に強く、霊視のようなことも出来るので、この業界では『オバケ』と呼ばれる不可解な事案専門の調査員をしている。
僕のオカルト道の師匠でもあるところの彼女は、今日は非番だったはずだが、なぜかふらりと事務所に顔を出して、「暇で楽なバイトだろう」と僕をからかっていたかと思うと、自分のデスクに腰を据えて読みかけの雑誌をつぶさに読み始めていた。
服部さんの方は、朝から市内で調査が入っていたはずなのだが、もう終わったのか、帰って来るなり無言で席に着き、それからずっとカタカタとワープロのキーを一定のリズムで叩き続けている。
小川所長からは、「留守電が壊れてるし、午前中誰もいなくなるから、頼むよ」と言われてやって来たのに、これでは電話番など必要なかったではないか。
そもそも電話の一本も掛かってこないのだ。
実に街は今日も平和だ。いいことだ。
探偵家業にはつらいことだろうが、僕には何の関係もなかった。
服部さんは無口で、話しかけられない限り自分から口を開くことはないし、いや、話しかけられても、なにもなかったかのように無視することさえあるし、師匠の方は服部さんのことが嫌いらしく、一緒にいると同じように黙り込むことが多かった。
平和だ。
実に。
暇つぶしに自分の名刺でトランプタワーのようなものを拵えようと何度目かのチャレンジをしている時、何の前触れもなくドアが開いた。
「小川さん、いるか」
この陽気だというのに、季節はずれのコートを身に着けた三十歳前後の男が、戸口に立って荒い息をしている。
その様子に僕は違和感を覚える。
格好のことではない。確かにハンチング帽などかぶり、この部屋の誰よりも探偵じみた格好ではあったが、そのことではないのだ。
本当に何の前触れもなくドアは開いた。つまり階段を上ってくる足音がしなかった。この小川調査事務所の入る雑居ビルは、家賃相応の「たてつけ」をしているのに。つまりそのたてつけを補って余りあるほど、完全に足音を殺していたということだ。
なのに、この目の前の男はまるで階段を二足飛ばしで駆け上がってきたばかりのように、苦しそうに肩で息をしている。この不一致が違和感の正体だった。
「所長は留守をしていますが」
僕がとっさにそう答えると、男は油断のない動きで室内に入り込み、デスクの影や来客用のパーティションの向こうに誰もいないことを確認すると、それまで小刻みだった息をようやくひとつにまとめて、「そうか、留守か」と言った。落胆した様子だった。
「所長の友だちか。それとも小川調査事務所への用か」
加奈子さんが雑誌を置きながらそう訊ねると、男は「まぶしいな。ブラインドを閉めてくれ」と言って、顔をしかめて見せた。
いったいどこの地底から来た人間なのか分からないが、とりあえず言うとおりにすると、少し薄暗くなった室内で男は苦しそうに顔を歪めながら、「小川さんに、田村が、いや田村の弟が会いたがっていると伝えてくれ」と言った。
そうして、「他の誰にもこのことを言うな。分かったな」と付け加えた。
余裕のない口ぶりだった。
「所長はどこに行けばあんたに会えるんだ」と加奈子さんが訊くと、男は顔を強張らせながら「いきつけのバーでもつくっておけばよかったな」と言ったあと、もごもごと口ごもり、「やっぱり忘れてくれ。さっき言ったことも、全部だ。俺はここに来なかった」と宣言した。
そうして入ってきたばかりのドアの方へ向かおうとする。足を引きずっているように見えた。その靴の先が、赤い線を引いている。
血だ。
そう思った瞬間、男はつんのめるようにして転がった。そうなる可能性のある電気コードはまだその先だというのに。
どすん、という音がする。
「おい、大丈夫か」
師匠が駆け寄る。
抱き起こそうとすると、男はうめき声を上げた。師匠はコートの裾をつかんで広げた。
シャツのわき腹のあたりに生地が切れた箇所があり、そこから血がにじみ出ていた。
「救急車」
師匠が端的に僕に指示を飛ばす。
すぐにデスクの上の電話に手を伸ばそうとしたが、「待て」という鋭い声に止められた。
「待ってくれ」男はコートで傷口を隠しながら言う。「救急車はだめだ」
「だめな救急車じゃないのを寄越すよう言ってやるよ」
「頼む」
血の気が失せて震えている唇で、男はそう懇願した。
師匠は返事の代わりに、「所長の友だちなのか、客なのか」とさっきと同じことを訊ねた。
「迷惑をかけてばかりだ。どっちでもない」
男は立ち上がろうとした。
「今、外へ出ると一階まで転がり落ちるぞ」師匠はそう言って僕に目配せをし、男をおしとどめる役をバトンタッチするや、デスクの受話器を取り上げた。
1・1・9
ではなかった。
もっと長い。市内局番から始まっている。
相手が電話に出た途端、師匠はいきなり声色を変えて喋り始めた。
「わたし。ごめん。ヘタうった。腹のあたり、ナイフで刺された。抜けてる。うん。はやく来て。お願い。救急車はだめ。絶対。友だちが間違って刺したから、事件にしたくない。ボストンの上の事務所」
受話器を置いた瞬間、さっきまでの苦しそうな声とは打って変わってあっけらかんとした声で言う。
「去年、市内の救急車の平均到着時間は七分半だったってよ。さあどのぐらいで来るでしょうか」
男はその師匠の様子を見ながら、ほっとしたように力を抜いた。その瞬間にまた痛みに襲われたのか、顔をしかめる。
僕は来客用のソファに男の身体を横たえ、師匠の指示でそのまま湯を沸かしにかかる。
師匠の方は雑巾を片手にドアの外に出て、床を拭いている。どうやら男の血を拭き取っているらしい。そのまま下まで降りて、戻ってきた時、同時に階段を駆け上って来る足音が聞えてきた。
「ちょっと、大丈夫なの」
大きな救急箱を抱えた女性が事務所の中に飛び込んできた。年齢は五十歳くらい。肩と言わず、全身で息をしている。
その横で師匠が、パン、と顔の前で手のひらを打ち、「ごめん」と謝った。
事務所の時計の針を見ると、電話を切ってから十分あまりが経っていた。
◆
「ほんとごめん、って」
「話しかけないで。手元が狂うから」
女性は謝る、というより半ば邪魔している師匠をあしらいながら、テキパキとした動きで男の傷口を処置していった。
後で聞いたところによると、野村さん、という名前の看護婦らしい。以前ある病院に入院していた師匠の看護をして以来の腐れ縁で、今でも交流が続いているそうだ。
いつも無茶ばかりする、自分の娘のような年の師匠を心配してあれこれと世話をやいてくれるのを、当の師匠の方は狡猾に利用しているようだった。
夜勤明けのところを叩き起こされたことに目をつぶるとしても、今回の出来事はさすがに迷惑の度を越えていたのか、真っ青な顔をして、それでもするべきことはしてくれた。
男も無言でされるがままになっている。
応急処置を終え、肩をいからせながら野村さんは立ち上がった。
なにか説明をしようとする師匠の口をふさぐようにして捲くし立てる。
「なにも聞きたくない。どうせろくでもないことに決まってるから! 傷は深くない。血管をそれてて出血も多くない。この程度で貧血になるなんて、普段から栄養が足りてない証拠! あと寝不足ならちゃんと寝なさい。以上!」
救急箱を乱暴に持ち上げて、野村さんはあっという間もなく、ドアの方へ向かった。
そしてくるりと振り返ると、「その傷は縫合がいるから、なるべく早く正規の手順で医者に掛かりなさい。あと、私はここに来なかった! いいわね」と言ってから、出て行った。
野村看護婦が去って行った事務所のドアを見つめながら、師匠は苦笑して言った。
「やたらと人がここに来なかったことになるな」
そうして腹に包帯を巻かれた男を見る。
男の顔はうっすらと無精ひげが生え、目元にはクマがあった。腹の傷がなくても倒れそうなほど疲労しているように見えた。
それでも顔を上げ、僕らの方を見ながら口を開いた。
「小川さんのところの調査員か」
「バイトだよ。こいつはその助手」
「そうか」
ソファに身体を横たえたまま、男は天井を仰いだ。
「金じゃなく、人を使えるやつは、いい探偵だ」
ぼそりとそう言うのを無視して、師匠は男を詰問する。
「あんた所長の情報屋か」
それを聞いて、くっくっく、と男は笑う。
「ルポライターだ。売文屋と言ってもらってもいい」
「ようするに情報屋だろう。所長に用なら、出直したらどうだ。とっとと病院へ行け」
「小川さんには世話になったよ。いや、迷惑のかけどおしだった」
「迷惑だと思ってるなら、もう出てってくれないか」
「あの人は凄い探偵だ。あの人と、兄貴のコンビには誰もかなわかった。本当に。いつだってかっこよかった。高谷さんのお嬢さんが、あんなことになるまでは……」
男の言葉は途中からうわ言のようになり、だんだんと何を言っているのか分からなくなった。
ギシリ。
僕がデスクの椅子に腰掛けた瞬間、男の目が開いた。
「もう一人は?」
そう言いながら身を起こす。一瞬、痛そうなそぶり。
「もう一人の男は?」
繰り返して訊かれ、師匠は服部さんのいなくなったデスクに目をやる。
「面倒ごとの匂いを嗅ぎつけて、さっさと帰ったよ」
デスクの上には、完成した報告書の束があった。
「タレ込む気か」
男は唸るような声を出してソファから立ち上がった。
「おい。落ち着けよ。そんなわけないから」という師匠の声にも耳を貸さずに、男は喚く。
「看護婦はいい。だが、あの男はだめだ」
「救急車の次くらいにか」
師匠の軽口に舌打ちをして、男は壁にかけておいたコートに手を伸ばす。
「興信所の人間は信用できん」
「こちら、良く分かってらっしゃる」
おほほ、と口元に手をやって笑う師匠を睨みつけると、男は手早くコートを身につけ、ハンチング帽を目深にかぶった。
「おっと、本当に礼も言わずに帰る気か」
師匠が行く手に立ちふさがる。
男はドン、と肩で師匠にぶつかりながら言った。
「ありがとよ、バイトのお嬢さん」
そうしてその脇をすり抜けながら、ふらつく足元のままドアの向こうへ消えて行った。
◆
そんなことがあった以外は、じつに平和に時間は過ぎた。僕と師匠はさっきの出来事をぽつぽつと話題にしながら、お茶などを飲んでいた。
やがて時計の針が正午を過ぎるころ、小川所長が帰ってきた。
「あれ、なにかあった?」
ネクタイを首から外しながら、ひくひくと鼻を動かしている。
そう言われて僕も真似をすると、消毒に使ったアルコールの匂いが部屋に残っていることが分かった。
「血の匂いがするよ」
それは気づかなかった。知っていたはずの僕でさえ。
師匠がさっきの出来事をかいつまんで説明する。所長は難しい顔をして聞いていた。
「田村か」
聞き終わったあと、ぼそりと言った。深い溜め息までついている。
「情報屋なのか」
師匠がそう訊くと、所長はあいまいに頷いた。
「七つ上の兄がいてな。その兄は優秀な情報屋だった。僕も色々と助けてもらったよ。だけど四年前に死んだんだ」
デスクの上に腰掛けながら、灰皿を引き寄せて煙草に火をつける。
「自動車事故だったな。確か。早すぎる。惜しい人を亡くした」
煙がわっかになって飛んでいく。
「優秀な兄貴に憧れるばかりだった弟は、自分の中でその死を乗り越えられず、一番安直な道を選んだ。ようするに跡を継ごうと決意した。努力は認めるよ。僕でもしり込みするようなトコロへ揚々と乗り込んでいく勇気も。だけどそれだけだった。センスがないと言えばそれまでだが…… 首根っこ引っつかんででも、別の道を進ませる甲斐性が僕にあれば、今ごろはもっとまっとうな人間になっていただろうけど」
子どものことをさも知ったように語る保護者のような口ぶりだった。
なんだか掬われない気がして、僕は言ってやりたくなった。
『あの人は、ただ優秀な兄貴に憧れたんじゃなく、あなたと組んで輝いていた兄貴に憧れたんだ』と。
黙ったままじっと見ていると、小川所長は灰を落として僕らの方に顔を向けた。
「田村がどんな危ないヤマに首を突っ込んだのか知らないけど、君たちはもう関わるな」
言われなくても。
「薄暗いな」
所長がそう言って初めて、僕は窓のブラインドを下ろしたままだったのに気づいた。立ち上がろうとした時、電話が鳴った。
「はい、小川調査事務所」
所長が近くの受話器を取った。朝から電話番をしていて、今日初めての電話を僕は取れなかったことになる。
師匠もそう言いたげに笑っている。
「あ、これはどうも。え? そうですよ。今帰ったところです。怖いなあ。見てたんですか」
口調は軽いが、所長の言葉が緊張を帯びている。
それに気づいて僕は、虫の知らせのようなものを感じてギクリとした。
「田村? 知りませんねえ。ここしばらくは見てないですよ。あいつなにかやったんですか」
所長はそう言いながら、電話機を持ち上げてスルスルとケーブルを引きずりながら窓際に向かった。
「え? ですから見ませんって。本当です。匿うって、そんな、松浦さん」
所長はブラインドを上げて、窓をそっとすかせた。
気持ちのよい風が、アルコールや血の匂いの充満した室内に入り込んでくる。竿竹売りの声が聞える。
松浦。
僕はその名前に聞き覚えがあった。ヤクザの名前だ。
小川調査事務所は『まっとうな』興信所だが、こういう業界にはどうしても暴力団の影がちらついている。単純に金主筋、というわけでなくても、多かれ少なかれそうした反社会的組織の影響はあるのだろう。
アンダーグランドな調査であればあるほど。
師匠の顔も強張っている。
師匠は異常なほどのヤクザ嫌いだ。本人に面と向かってもそう断言するほど嫌いなので、僕は気が気ではなかった。
「すみませんね。お役に立てなくて。いえいえ。もし見かけたら、一報しますよ。それじゃ」
所長は電話を切るや否や、僕らに向かって「早く逃げろ」と言った。
「え?」
と、うろたえる僕を師匠は小突いて、「行くぞ」と言う。
「電話口から竿竹屋の声がした。近くから掛けてる。くそ、田村の野郎やっかいごとを」
僕と師匠が連れ立って事務所のドアを出て、階段を駆け下りていると、同じくらいの勢いで駆け上って来る一団があった。
「はいはい。ストップ」
見るからに堅気の人間ではございません、と主張するような服装をした数人の男たちだった。
「あがって、あがって」
長めの髪の毛を茶色に染め、ど派手な紫のジャケットを着た先頭の男が、身振りを交えてそう言う。チンピラ風だが、後方の連中はもっと本格的な暴力団スタイルをしていた。
思わずその場で硬直していると、「あがれって、言ってるでしょ」と茶髪の男が、ニッコリとえびすのように目を細めて僕の腹に拳を置いた。
そっと、触れるか触れないか、という軽い拳だったが、僕は未知の暴力への恐怖に背筋が凍った。
「わかったかい。わかったら、もう一回わかれ」
どぶん。
腹に重いものが落ちてきた。一瞬で息が詰まる。
「さあさあ。後ろがつかえてるんだから。早くあがってあがって」
殴られた。殴られた。
僕の頭の中は混乱の嵐だった。
忌々しそうにしながらもしぶしぶ元きた階段を上り始める師匠を見て、何も考えずに付き従う。戻ってきた僕らと、その後ろからゾロゾロと現れた男たちを見て、小川さんは顔を覆った。
「ごめん」
謝る師匠に、「いや、ごめんはこっちだ」と小川さんは力なく返した。
ドアから次々と入ってくる男たちの最後に、一際地味な格好をした男が入ってきた。
黒いダブルのスーツだったが、他の男たちほど胸元を広げておらず、下のシャツも白の無地で、ネックレスの類も身につけていなかった。さすがにネクタイこそしていなかったが、髪型もパンチなどではなく、控えめな長さのオールバックだった。
そして黒縁の眼鏡をしている。
この小川調査事務所がらみで、何度か見たことがある男だ。確か『石田組』という名前の暴力団の男。その中でも、普通に街で遊んでいるだけでは、そうそうお目にかかれない、真に暗い場所に生息している人間だった。
「松浦さん、これはなんだ」
所長がその男に、鋭い口調で言う。
「電話で言ったとおりだ。田村を探している」
「こちらも電話で言ったとおりだ。ここしばらく見ていない」
言い返した所長に、茶髪の男が喚き声を上げる。
アニキになんて口ききやがる。
そう言ったのだろうが、あまりに頭の悪そうなドスの利かせ方をして、ほとんど何を言っているのか分からない。
「小川さん。あなたが知らなくてもこちらは一向に構わない。この事務所は、田村と何の関係もない。それが分かればいいんです」
松浦というヤクザは、顎をしゃくって見せた。確か石田組の若頭補佐という役職だったはずだ。
男たちが室内に散る。台所やトイレ、ロッカー。人間一人隠せる場所など限られている。あっという間に、男たちは手持ち無沙汰になった。
「いないのは間違いないようですね。では彼について知っていることをお訊きしましょうか」
そうして、松浦は僕と師匠とに交互に目をやった。
「松浦さん、それはだめだ」
所長は今日一番の低い声を出した。そしてじっと相手の目を見つめる。
「だからてめえはだれにくちきいてんだっつってんだ」
茶髪が頭を上下に振りながら一歩前に出た。そのそばにいたゴリラのような顔の背の高い黒服がそれを押しとどめる。
その時、僕にもう少し余裕があったなら、よく聞く「良い警官と悪い警官」の話のように、乱暴な若者と、それをなだめて穏やかに話を訊き出すベテランの、それぞれの役割をこの場でも演じていると感じたかも知れない。
それにしても、茶髪の若者は一番チャラい格好をしていて本職というよりは街のチンピラのようで、どちらかというと、あのゴリラ顔の男の方に「悪い警官」役をやられると僕の心臓はもっと縮み上がったに違いない。
「話をややこしくするな」
ゴリラ顔の男は茶髪の頭を小突いた。小突かれた方は恨めしそうにしている。
「そう。話はシンプルに行きましょう。田村は来たのか、来なかったのか」
松浦はそう言って、時計を見た。
ゴツイ時計だ。どうせオメガだかロレックスだとか言う名前で、無駄にダイアモンドを散りばめて、精密時計並に値を吊り上げた不精密時計なのだろう。
「あまり長居もしてらないのでね。あと三分半くらいでお願いします」
それは、僕らが口を割るまでの時間なのか、それとも割らせるまでの時間なのか気になった。
あの田村という男にはなんの義理立てもないので、ゲロするのに全くやぶさかではなかったのだが、一度「知らない」と答えている小川さんの立場がどうなるのか、それだけが気になって僕はなにも言い出せないでいた。
師匠と目配せしようにも、その不自然な動きだけであっという間にとっつかまって拷問を受けそうな気がしてならない。
「来ましたよ。来ました」
小川さんは白旗、という風に両手を上げた。
茶髪の男がまたなにか喚いて、ゴリラ男に肩を押さえつけられている。
「話はシンプルにお願いします」
松浦は静かにそう言った。
「私が留守の時に、私を訪ねてきたようです。一時間半くらい前です」
そうして小川さんは淡々と事実の説明をした。バイトの調査員をやっかいごとに巻き込ませたくない一心で「知らない」とウソをついたことまで。
ほぼすべて事実だった。だが事実のすべてではなかった。野村看護師の出番は師匠の見よう見まねの応急処置にとって代わられた。一応は手伝っていたので、なまじウソでもない。これ以上無関係の人間を関わらせたくないからだろう。
「なかなか、分かりやすい話でした」
松浦はカツカツと、顔が写りそうなほど磨かれた革靴の音を響かせながら窓際にある小川所長のデスクに腰を乗せた。デスクの上には、本来のそのデスクの電話機とは別のものが、ケーブルをずるずると延ばして乗っかっている。
松浦は事務所の主に断りも入れず、その受話器を持ち上げると電話を掛け始めた。
「私だ。情報は?」
そう言った後、じっと聞き役に回っていたかと思うと、「頼むよ」と一言いって受話器を置いた。
最後の言葉は、字面からは想像もつかないほど寒気のするような響きだった。頼まれた相手もきっとそう思っただろう。
他のヤクザたちは乱暴にさっきの所長の言葉の裏づけを取っている。つまり、血をぬぐったガーゼや消毒液の染み込んだコットンをゴミ箱から見つけては、無造作にそれを床に投げていくのだ。
他人の家の床が汚れることなんて屁とも思っていないらしい。
「彼の怪我はどうでしたか」
松浦が師匠に声を掛けた。田村を介抱したことになっている師匠は、今まで一言も発しなかったのが自らの戒めであったかのように、その禁を破って静かに言った。
「致命傷ではなかった。自分で立って歩いて帰れるくらいの怪我だ。だけど疲労困憊って感じで、声もかすれ気味だった」
答え自体は簡潔なものだった。しかしその口調は、デリケートな相手に対してするべきものではなかった。
案の定、茶髪が口の利き方がどうだとか言って吼えている。
そのころになると、ようやく僕もこのひと騒動が無事に終わりそうな気配を感じて、浮き足立っていた足も地に着き、周囲を観察する余裕が出てきていた。
部屋にいるヤクザは全部で五人。
若頭補佐の松浦という男は三十台後半くらいで、後は一人だけかなり年嵩の眠そうな顔の男がいたが、他はもっと若い。中でも茶髪の男は二十代前半だろう。
そして全員の胸元を見てみたが、よく耳にするような金バッジはつけていなかった。
だからといってこいつらがヤクザではないのかも知れない、などという希望的観測はさらさら湧いてこなかったのであるが。
「あの怪我は、刃物の傷だ。どこでどうやってついたのやら」
師匠がさらに挑発するように言う。
松浦はずい、と上半身を乗り出した。
「ちょっとした勘違いがありましてね。田村はうちの若いのと一瞬もみ合いの様な形になったらしくて、その時お互いが怪我をしたようなんです。まあよくある間違いですよ。お互い様というやつです。ビジネスの話が途中だったので、そんなことは水に流してさあもう一度話し合いを、というところで彼の行方が分からなくなりましてね。困ってるんです」
松浦がそう言った
「お互いが怪我?」
師匠は眉をひそめて、宙に視線を漂わせる。
僕もその意図を悟って、師匠の視線の先に意識を集中した。
田村はあれだけの大怪我をしていて、なお追われている。そのわざわざ口にしたもみ合いが本当なら、相手はただの怪我ではないのではないか。そう思ったのだ。
だが、僕がどれほど目を凝らしても、彼らの周囲に真新しい死の影は見当たらなかった。
「そのもみ合った若いのっては、死んではいないみたいだな」
師匠はぼそりと言う。
松浦は怪訝な顔をしたが、すぐになにか気づいた表情を浮かべて笑った。
「聞いたことがありましたよ。『オバケ』専門の探偵さん。あなたでしたか。いやいやこんなにお若いとは」
他のヤクザたちは狐につままれたような顔をしている。
「私は、こんな商売をしていると自然と敵が多くなりましてね。そのせいか、努力が全く報われないことが多いんですよ。同業者には占い師なんかに血道を上げて、その努力が努力の通り報われるようなご助言をいただこうという連中もいます。しかし、私はどうもそういうのが嫌いでねえ」
松浦が、目を細めた。
今までは、ただ自分の役割を演じていただけの男が、一瞬で脱皮し、蛇のような冷たい本性を現したかのようだった。
「うそは、いけません。うそは。うそは簡単に人を幸せにしますが、見破られたときの不幸は、周囲のすべてを巻き込みます。霊能力者と名乗る連中も同じですよ。テレビであれだけ騒がれても、うそが暴露され、さらし者になる。一番不幸なのは、そいつらを信じて身代を投げ打った無辜の民です。なのにまた、前任者のさらし首が乾かないうちに次の霊能者がブラウン管を賑わせる」
ひたひた、という滑らかな口調で松浦は続ける。
「あなたがそんなうそを言う人間でなければいいが。心からそう願ってやみません」
松浦は腰掛けていたデスクから降り、師匠の前に歩み寄った。そして手を伸ばせば触れるか触れないかという距離で立ち止まると、口を開いた。
「私は、占い師や霊能者を名乗る者に出会うと、必ずこう訊くようにしています。『私には誰か守護霊がついて見守ってくれてはいませんか』と。彼らは一瞬困ったような顔をした後、こう言います。『お母様が守護霊としてついていてくださいますよ』と。あるいはこうです。『お父様が見守ってくれていますよ』と」
松浦は師匠の顔を正面からじっと見つめている。
師匠もその視線をそらさず、真っ向から見つめ返している。
「私の年齢ならば、父や母はまだ生きている可能性は十分ある。生きていたとしたらその時点でペテンだと露呈します。なのに、安全に祖父や祖母の話を持ち出さなかったのは、彼らもまたある種のプロフェッショナルだということです。ホットリーディング、と言うんですか。顧客の情報を事前に可能な限り仕入れておいて、さも今霊視しているように演じる、あれです。この私どもの業界は人の口には戸を立てられない、というのを地で行く典型的な噂社会でしてね。ちょっと知ってる風の三下にそれなりのものを掴ませれば、簡単に聴けるんですよ。私の父が本家、立光会の先代だってことや、母はその何人目かの愛人で私は中学校を卒業するまでは私生児として育てられたってことをね。そしてどちらももう死んでいて、この世にいないことも」
表情を全く変えずに、松浦は師匠に問い掛けた。
「公然の秘密というやつです。それを踏まえた上で、あなたにも問いたい。『私には誰か守護霊がついて見守ってくれてはいませんか』と」
さっきまでのヤバさと、全く次元の違うヤバさだ。
ひしひしとそれを感じる。
同じような感触を得ているであろう他のヤクザどもも、緊張した面持ちで動けないでいる。
松浦の満足するような答えが返ってこなかった場合、いったいどうなるのか。想像するなと言われても、想像しようとしてしまう自分がいる。
「さあ。どうです」
これが最後の問いだ、と言わんばかりに松浦は口を引き結んだ。能面のような顔だ。ふと僕はそう思った。
師匠がゆっくりと口を開く。
「いないね。誰も。あんたの後ろにあるのは虚無だ」
めんどくさそうに言って、鼻で笑った。
松浦は一瞬、呆けたような顔をして、それからゆるやかにまた脱皮をし、元の蛇のような表情に戻った。
師匠がぼそりと言う。
「霊の話をしてると、寄って来るって言うだろう。来てるよ、ほら」
師匠が窓の方を見た瞬間に、松浦もまたそちらを見た。
そして窓から目を逸らすと、二人で見詰め合った。驚いたような顔だった。しようもない手口で脅かされた松浦の方は、顔を真っ赤にしてもおかしくない場面なのに。
不思議な沈黙が流れて、僕らは息が詰まった。
誰も動かない状況を破ったのはふいに鳴った電話だった。
取ろうとした小川所長を目で制し、松浦はそのまま年嵩の男に目配せする。男はすっと動いて受話器に手を伸ばした。
「はい。小川調査事務所」
抑揚のない声でそう告げると、電話の向こうは関係者からだったらしく、松浦の方に向き直って受話器を下げ、「見つけたそうです」と簡潔に報告した。
「分かった。お前ら先に行け」
松浦がそう言うと、年嵩の男、ゴリラ男、そしてもう一人長い顔をしたパンチパーマの男が頭を下げて部屋から出て行った。
後には、小川調査事務所の三人と、松浦、そして茶髪の男が残された。表でベンツだかBMWだかの車のエンジンが重低音を響かせたかと思うと、その音があっという間に遠くなっていった。
残った茶髪の男は松浦付きの運転手なのだろう。
さっきから何が楽しいのかニヤニヤと無意味に笑っている。本当に頭の悪そうな顔だ。僕はさっき殴られた腹が急に痛み出し、二対三という数字上の優位をたてに軽く睨みつけてやった。
茶髪はその視線に気づいて、からかうように顔をしかめてみせている。そしてまたヘラヘラと笑う。
「で、捕まった田村はこのあとどうなるんだ」
師匠がなんでもないことのようにそう問い掛けると、これまで師匠に任せようとばかり沈黙を貫いていた小川所長が、「おい」とたしなめる。
「そちらには関係ありませんよ」
つまらなそうにそう言って、近くにあったティッシュで鼻をかんだ。
しかし目的は達成したとはずだというのに、すぐに去ろうとしないのはなにかまだ言い足りないことでもあるのに違いなかった。
師匠は距離感を図ろうともせずに、さらに懐へ飛び込む。
「あいつはなんで追われてたんだ」
そう問うと、松浦はティッシュをゴミ箱に投げ入れた。狙いは外れなかった。
「……そうですね。株式会社角南建設。知ってますかね」
急に僕でも知っている中大手ゼネコンの名前が出てきて少し驚いた。この市内に本社を構えていて、地元ではトップ企業の一つだ。よくテレビCMを目にする。
「そこの今の会長は創業者一族の重鎮でしてね、角南盛高(すなみもりたか)。御年七十一歳。そしてその兄が、一族の現当主にして県議会議員の角南総一郎。御年七十三歳。当選十回の、泣く子も黙る古狸です」
松浦はまたティッシュを鼻にやった。
茶髪がソファを引きずってきて、後ろに据えると、何も言わず当然のように腰をかける。
「まあ、この角南一族というのは、戦前から海運業などで財を成した言わば財閥で、さまざまな分野にその根を張り巡らせています。例えば」
松浦は有名な地元製薬会社の名前を上げた。
「あそこの株主の中でも、主要なところは角南家に抑えられています。名前は直接出てきませんがね」
今度のティッシュは的を外した。あ~あ。という感想が漏れる。
茶髪は、拾うべきか拾わざるべきか悩んでいる顔をしながら、一応という表情で拾いに行って、ゴミ箱に入れた。
「そして地元でも、もはやまともに立ち向かってくるもののいない、権威と権力、そして金を手にしている彼ら一族ですが。次の衆院議員選に、その秘蔵っ子を出してくるらしいんです」
喫茶店でゴシップ話でもするように松浦は続ける。
「二区でね。一騎打ちですよ」
秘蔵っ子とやらの一騎打ちの相手とは、次期首相候補と噂される代議士のことだ。地元出身ではない僕でも名前は知っていた。
「今まで有形無形の様々な形で応援していたのが、手のひらを返して対立候補を立ててくるんです。ただごとじゃない。その秘蔵っ子は、そうですね。角南盛高か、総一郎のどちらかの息子とだけ言っておきましょう。まあ、こんな情報はそこらの週刊誌にも出てるような話です。話半分に聞いておいて下さい。まあ事実上一騎打ちと言っても、今の中選挙区制では次点でも落ちることはありません。しかし、万が一、新人の後背に甘んじるようなことになれば確実に顔は潰れます。次期総裁の座も危ない。と、こういう図式です。問題は勝算があるのかどうか、ということですよ。あるいはただのブラフかも知れない。ブラフだとしても、こんな情報が市井に出回っている時点で、一定以上の効果はあるでしょう。出ちゃおうかな、出ないでくれ。そういう交渉が水面下で続いているのかも知れない。その見返りの『算盤のケタ』の問題を詰めている最中なのかも知れない。さて、私ども凡俗の人間には分かりかねる世界ですが……」
松浦はそこで言葉を切って、それまで向いていた師匠ではなく、所長の顔を見て言った。
「出ます。十中八九ね」
あっさりとそう断言するのだ。
「そして出るからには勝ちに来ます。間違いなく。一族を上げて。そこで怖いのは、スキャンダルです。今まで中央政界で散々もまれて来た某代議士センセイと違って、ほぼ初めて一般の方の目に触れる箱入りのお坊ちゃんだ。もっともハーバード大学卒業から始まるキャリアは大変なものですがね。ともあれそんな大事なお坊ちゃんには、まだスキャンダルの洗礼の余地が十分にあるんですよ。立候補の告示日の翌日には落選確実の一報が入るような、恐ろしい一撃がね」
黙って聴いていた小川さんは、やっと口を開いた。
「いったいなんの話なのか分かりませんが。そう言えば角南県議は今でも角南建設の顧問でしょう。株も相当数保有しているんじゃないですか。常々思っていたんですが、あれは、地方自治法上の……何条でしたっけ。とにかく兼業禁止規定に引っ掛からないんですかね」
まるで話を逸らすような内容だったが、松浦はそれについても解説を加えた。
「角南建設は確かに、県発注の公共工事を多数落札し、施工しています。一見すると、議員の自治体からの請負を禁じた九十二条に引っ掛かりそうなものですが。実は本人が請け負うと即アウトなんですが、法人の場合、その法人にとってその議員がどういう役職にあるか、実体としての影響力を持っているか、に掛かってきます。そして支配的な地位を持っていると認定されても、請負の額の問題が発生します。判例にもよりますが、まあだいたい法人の年間受注額全体における県発注工事の占める割合が五十パーセントを越えなければセーフですね。それに、兼業禁止にかかる発議権は、議員に専属しています。お仲間たちに無駄な声を上げさせない力を持っていれば、そんな問題自体が発生しないんですよ。検察だって手が出せません」
ところが、と松浦は話をまた元に戻す。
「そんな兼業禁止規定だなんていう抜け穴だらけの有名無実な禁則事項よりも、もっと危険で即効性のある『毒』が、ある男からもたらされたんですよ」
「それが田村なのか」
松浦はそれには答えなかった。喋りすぎていないかどうか慎重に吟味しているような顔をしていた。
そもそも僕にはなぜ松浦が、そんな裏の情報をここで口にするのかさえ、さっぱり分からなかったのだが。
「老人って、なんのことだ」
師匠が何気なく漏らした一言に、松浦の顔つきが変わった。
茶髪の男が師匠の背後に回ろうとして、その間に小川所長が身体を割り込ませる。
「静かに」
その動きを制して、松浦はゆっくりと問い掛けた。
「どこで、それを」
「この事務所で倒れてから傷口を洗うまで、田村は気を失ってたんだ。アルコールをぶっかけた途端、喚いて目を覚ましたけどな。その気絶している間に、呟いたんだよ。うわごとみたいに。なあ、老人って誰のことだよ」
「田村は老人が、どうした、と言っていたのです」
「知らん。老人、っていう言葉しか聞き取れなかった」
松浦は射るような目つきで師匠の顔を眺めた。そうして「老人は」と、口を開く。カパリと。
「総一郎、盛高の父です。先代当主ということになりますか。もう十年以上前に亡くなっています。老人…… そう。彼は、ただ『老人』と呼ばれています。畏敬をもって。その息子たちがそう呼ばれて久しい年齢になっているというのに」
角南大悟(だいご)
本名をそう言いました。
松浦の言葉に、一瞬小川さんが驚いたような顔をした。どうやら知っているらしい。
そちらに一瞥を加えてから続ける。
「時代を超え、ただ、その名のみをもって今なお人を畏怖させる。日本戦後史の暗部にうごめくフィクサーの一人です」
「その老人とやらにまつわるスキャンダルだってのか」
師匠が鋭く切り込んだ。
松浦はソファから立ち上がった。
「さて、どうでしょう。ただ、地元に根を張る我々としては、仮にそんなものがあったとしたら、東から来る仁義の欠片もないヤカラどもと違い、郷土の英雄を守りたいという義憤にかられるのではないでしょうか」
もう話は終わりだ。
そう言いたげに、松浦は茶髪の方に顎をしゃくってみせる。
最後に、事務所を荒らされ放題にされた格好の小川さんが、短く言った。
「そちらと、角南一族とは縁が切れていたと思ってましたがね。例の産業団地がらみで何人逮捕されたか考えれば」
松浦は目を細め、すっと半歩だけ近寄って顔を突き出しながら言った。
「組織が大きいとね、色々あるんですよ」
まるでそれまでの話よりもよほど重大な秘め事を明かすかのような口調で。そうして、蛇のような男は、青白い顔の印象を強く残しながらドアの方へ向かった。
「あ、そうそう。その『毒』ですがね。どうもおかしなところがあるようなんです。まだよく分からないんですが。この次は探偵を頼る客として来ることがあるかも知れない。その際はご指名しますよ、お嬢さん。次に会う日までに、年長の人間と話す時の作法を身に着けておくと、もっといい」
こちらを振り向かずにそう言うと、松浦はドアの向こうへ消えた。後を追う茶髪がその去り際、ふらりと近寄って来ると、いきなり僕の頭を軽く抱えて、ぼそぼそと言った。
「おい。兄ちゃん、俺の顔を見て笑ったろ。人をよう、見かけで判断しちゃダメだって、教わらなかったんか」
そして、さっき階段のところで食らわしたのと同じパンチをボディに入れてきた。こっちからずっと睨んでいた腹いせに違いなかった。重い痛みが芯に響き、身体が九の字に折れそうになる。
茶髪は、その前歯が一本欠けた間抜けな顔をすっと遠ざけ、じゃあなと言って、ドアの向こうへ去って行った。
また外車特有のエンジンの音を響かせ、その音が遠ざかっていくのを聞いた後、僕ら三人は一人残らずへたり込んだ。
「寿命が縮むよ」
小川さんが、師匠を恨めしそうに見ている。
「ヤクザ、怖えぇな。やっぱ」
師匠は今さらのようにそう一人ごちる。
僕はというと、殴られた腹を手で押さえながら、もういい加減にこのバイトを辞めようと心に誓ったのだった。
「あ。お嬢さんて、今日二回も言われた」
師匠が妙に嬉しそうにそう言った。
◆
ヤクザどもが去って行った後、小川さんはしばらくソファでぐったりしていたが、急に飛び起きると、慌てた様子でデスクについて仕事を片付け始めた。
ホワイトボードのスケジュールに目をやると、所長は今日の午後三時半の飛行機で東京へ立つことになっていた。
帰りは明日の午後九時となっている。
なんだか慌しいが、仕事は人と会う用件が一つだけで、あとは友人の結婚式の二次会に参加するのが主な東京行きの目的らしい。
書類の束をいくつかに分けながら、所長が顔を上げる。
「加奈ちゃん、これ、請求書、て、あれ、そういや今日呼んでないよね。遊びに来たのに、バイト代は出ないよう、と」
そしてヤクザが家捜しで荒らした事務所内を片付けていた僕を手招きする。
「請求書作ったことあったよね。これと、これの分を頼むよ。送り先はここね」
そうして幾つかの指示の後、しばらくかかって綺麗にデスクの上の書類を片付けてしまい、最後に服部さんのデスクにあった報告書のチェックにかかった。
その間、加奈子さんは所長と僕が働いているのをぼんやりと見ているだけで、時々「腹減った~」と喚いたり「危険手当」や「ヤクザ手当」といったものを後付けで勝手に考案しては、要するに小遣いをせびって邪魔ばかりしていた。
所長は服部さんの報告書に付箋で指示を書き込んでから、ようやくデスクから離れた。そして脱いでいた上着を着始めたので、師匠が「そのひん曲がったネクタイで結婚式行くのかよ」とからかうと、「ばか。一度家に帰るよ。それに二次会からだ」と返した。
そうして事務所から慌しく去っていく前に、僕らに向かって真面目な口調で言った。
「今日のことは僕のせいだ。すまん。君たちにはああいう人間たちにはできるだけ関わって欲しくないし、僕も関わりたくない。やつらが田村のことをどう決着つけるにせよ、命の危険があるほどのことなら、田村は自分で警察に逃げ込む程度の分別のあるやつだ。ああいう仕事を望んでしている以上、自分の尻は自分で拭く必要がある。それは田村自身覚悟の上なんだ。だからこの件には関わるな。特に加奈子。僕の経験上、凄く嫌な予感がしてるんだけど…… 大丈夫だな」
師匠は、わざと曖昧に頷いた。
その肩に手を置いて、所長は大丈夫だなともう一度念を押し、わざとにこやかに笑った。肩を掴む手にはかなり力が入っているようだ。
「でも冷たいな、所長。わざわざ会いたいって訊ねてきたんだろ、田村は」
「やっぱり忘れてくれ、と言ったんだろう。最後に。あいつは、頼ろうとした自分を恥じたんだ。とにかく、もう関わるな。いいな」
ようやく師匠はちゃんと頷いた。
僕は初めてのヤクザとの第三種接近遭遇にまだ足元はふわふわと浮いているような感じだったが、これでもうこの件は終わったものと思って安堵していた。
◆
その次の日は土曜日だった。
僕は朝、師匠の家に電話を入れたのだが、留守のようだった。昨日の小川所長と同じような予感めいたものがあり、自転車で小川調査事務所に向かった。
雑居ビルの脇の狭く薄暗い階段を上り、三階にある事務所のドアをノックする。応答があり、中に入ると案の定、師匠がいた。
なにやら仏頂面をして、自分のデスクで肘をついて顎を支えている。
「なにしてるんですか」
「なにも」
向かいのデスクには服部さんもいる。
しかし師匠の方は不定期の『オバケ専門』のバイトだ。その依頼について、「受ける」「受けない」は所長の小川さんに決定権がある。今抱えている案件はないし、所長の留守中に、どう考えても師匠がここへ出てこないといけない理由はなかった。
もちろん、昨日の田村がらみ、いや、ヤクザがらみの件を除いて。
「ねえ、なにしてるんですか」
「肘をついている」
顎が固定されているので、頭の方がカクカクと動いている。
「帰りましょうよ」
「帰れば」
「帰りません」
「好きにすれば」
「します」
「……」
「なにしようとしてるんですか」
「右肘の先が痛くなってきたから、左肘に変えようとしている」
よ、と言いながら師匠は姿勢を入れ替える。
その向かいでは、服部さんがワープロのキーを叩きながら、どこかに電話をかけている。どうやら昨日の報告書で、所長に指摘された部分の裏を取っているらしい。
同じバイトの身で、こうまで勤務態度が違うと普通の職場なら軋轢を生みそうだが、お互い、良い意味で無視をし合っている。無関心というべきか。そもそもこの二人には接点がないので、摩擦すら起こらないのだった。
息が詰まるような沈黙が続いていると、事務所の電話が鳴った。服部さんが手を伸ばそうとしたが、それよりも早く師匠が自分のデスクの受話器を上げた。
「はい、小川調査事務所」
なんだ、所長か。そんなつぶやきが漏れた。
僕は耳をそばだてる。
師匠は電話をかけてきた所長と二言三言、会話を交わした後で僕の方を見てから受話器から顔を離して、こう言った。
「昨日の田村、捕まってないってよ。石田組のやつらに」
はあ?
僕は何を言っているのか分からず、唖然とした。
師匠は受話器を口に戻して続ける。「どうやって知ったの。へえ、あるルートねえ。あんなこと言っといて、気にはしてたんじゃないの、あの後どうなったか」
そうしてまた僕の方を見て言った。「とにかく、すぐに事務所を出ろってよ」
また受話器に耳を押し付ける。「え? 服部? 服部もいるよ。ああ。分かった。言っとくよ。分かった。分かった。すぐ帰るってば。はいはい」
師匠は電話を切ると、僕と服部さんに向かって言った。
「田村は何故か逃げ切ったらしい。今も石田組の連中が傘下の団体も使って捜索中だってよ。ここにもまたやつらが押しかけて来るかも知れないから、早く帰れってさ。あと、服部も今日はもういいから帰れって」
それを訊いた瞬間、服部さんのワープロのキーを叩く手が止まった。驚いて、というよりもちょうどそこで最後の文字を打ち終わった、というような自然さだった。そして無言で机の上を片付け、一言も発せずに事務所を出て行った。
僕は心臓がドキドキしているのを自分で胸に手をあてて確かめた。これは恐怖なのか、それとも別の何かなのか。いや、恐怖に違いなかった。
「僕らも帰りましょう」
「ああ」
しかし師匠は動こうとしなかった。何か考えている風であった。
「ここは危ないですよ。早く出ましょう」
「ちょっと用事がある。先に帰れ」
僕の目を見ようともせずにそう言う。
どう考えても、師匠の言う用事はいま迫り来る危機と関係がありそうだった。
いったい何を考えているんだこの人は。
僕は彷徨いそうになる視線をなんとか修正しながら、ようやく口を開いた。
「じゃあ、僕も帰りません」
「勝手にしろ」
それからの僕は、生きた心地がしない、という状態だった。デスクに並んで座り、ただ正面を見て、これから起こり得ることを想像しては身震いする、ということを繰り返していた。
当の師匠は思案げではあったが、態度はいたって平然としていて、服部さんのワープロの電源が入ったままなのに気づいて「ニンジャのやつ、切り忘れてやがるぞ。動揺してる、動揺してる」と笑いながら電源を落とし、またその後考え込む、などということをしていた。
ビルの下の方で聞き覚えのある重低音が止まり、その後階段を上る複数の足音が聞えて来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。
どうせ来るなら、もっと早く来て欲しかった。
イメージトレーニングをしすぎて疲れ果てていた僕は、その時すでにそんな心境だった。
ノックもなしにドアが開き、昨日の歯抜け茶髪が現れた。その後に続いて入って来たのは、若頭補佐の松浦と、昨日は見なかった別の若い衆だけだった。
三人か。
僕のシミュレーションでは、昨日より数が減っていたら危険度は下がる方向にあるはずだった。そしてまた松浦がいた場合、危険度は上がる方向にあるはずだ。
プラスマイナスでゼロ。現時点では昨日と大差ない状態と判断した。
三人のヤクザはジロジロと室内を見回し、そして松浦の合図で残る二人が昨日と同じように事務所の中の捜索を始めた。
「所長は」
松浦の問い掛けに、師匠はちゃかしたような口調で答えた。
「いるよ。仕事してる」
「どこでだ」
「ここだよ。すぐ目の前にいる。あの人、めちゃくちゃ仕事速いからな。常人には目で追えない。休憩に入ったら見えるようになるよ」
「コラ、おんなあ!」
五分刈りの若い衆が凄い声を出した。茶髪よりよほど凄みがある。僕は飛び上がりそうになった。
松浦がさすがに不快そうな表情を見せたが、それでも若い衆を止めた。
それを見て、師匠は指で壁のホワイトボードを示す。
「そう言えば書いてあったな」
田村を匿うために身を隠したのかと詮索してきてもおかしくない場面だったはずだが、松浦の記憶力が無駄なやり取りを省かせた。
「田村は捕まえたんだろう。ここにはもう用はないはずだ」
師匠が淡々と、昨日と同じ口の利き方で喋っても、松浦は怒り出しはしなかった。次に会う日までに、目上の人間と話す時の作法を身に着けろ、と言いはしたが、その日を昨日の今日にしたのは自分の方なのだ。怒る筋合いもなかったが、そんな筋など破るのが彼らの稼業のはずだった。
松浦が何を考えているのか全く読めない。
「アニキ、居やせんぜ」
大の大人が隠れられるはずもない台所の流しの下の扉まで開けて、若い衆たちはそう報告した。
「わかった。お前らは下で待ってろ」
松浦の指示に驚いた顔を見せた彼らは、「え、でも」と言い掛けたが「下で待て」という再度の指示に逆らうほどの度胸はなかったようで、すぐに二人とも事務所から出て行った。
僕はシミュレーションにはなかった展開に戸惑い、棒立ちになっていた。師匠は僕が朝見たときと全く同じ格好で、デスクに肘をついたままだ。いったいどんなクソ度胸なのか。
松浦はソファを自分で好きな位置に移動させ、腰掛けた。ダブルのスーツに白いシャツ。本皮の靴に、黒縁眼鏡。
昨日と同じ格好だ。だが、よく見ると眼鏡以外のすべてが似た別のブランドのものだった。
その男が指を組みながら口を開く。
「田村は逃げた。手違いがありましてね」
「おたくのトコは勘違いやら手違いが多いな」
「減らず口はもういい。お嬢さん。あなたが私を怖がっていることは分かっている。私もあなたが少し怖い。それでいいでしょう」
そこで師匠は初めて意外だという表情を見せ、姿勢を正した。
「わたしになにが訊きたいんだ」
松浦はそこでちょっと口ごもった。簡単には説明できそうにないことが悔しそうだった。
僕はその二人のやりとりをぼうっと見ていることしかできなかった。まるで師匠と松浦の二人しかいない空間のようだった。
「ちょっと調べさせましたよ。あなたのことを。興信所の同業者たちはほぼ異口同音に、インチキの類だと言っているようですが、依頼をしたことがある、という人は揃って本物だと言っています。ここから分かることは、少なくともあなたには心霊現象がらみの事件を解決する能力がある、ということです。たとえインチキにせよ、ね」
松浦は前置きから始めることを選んだ。長い話になりそうだった。しかし煙草を懐から取り出そうとはしなかった。元々吸わないのかも知れない。
ただ黙って言葉を選びながら続けた。
「田村は逃げたまま、まだ見つかりません。金、酒、女…… 目ぼしいところはあたっていますが、現在の居場所にまで辿れていない。あるいはもう県外まで逃げおおせているのかも知れない。さらに最悪なのは、我々と、そして角南一族とも敵対する組織の懐に逃げ込んだ可能性。そうなれば我々は手を引かざるを得ない。後は角南一族が食われるのを、指を咥えて見ていることしかできなくなる」
「東の、四角いやつらか」
師匠が際どいジェスチャーを見せると、松浦は否定しなかった。
「しかし、昨日少し言いかけましたが、どうも田村の持ってきた『毒』の方におかしなところがあるんですよ。その『毒』が巧妙に作られた偽物だとすると、老人にとって、そして現在の角南一族にとって致命的なスキャンダルにはなりえない。彼が今も所持して逃亡を続けている『毒』に価値がないということになれば、我々としても、彼を探すモチベーションを失うということです」
「毒の現物もなしに、わたしに毒の鑑定をしろと?」
「いや、その複製があります。だが、粗悪なもので本物ほどの価値はない。が、ともあれ、それが本物であればどういう致命的な猛毒を持つか、推測するには十分なものです。ただ私が知りたいのは、その『毒』に混ざった不純物の正体です」
「毒だの不純物だの、抽象的過ぎてさっぱり分からない」
「それが具体的になれば、あなたはもう逃げられない」
松浦の静かな言葉の中に、氷のひと欠片が混ぜられた。喉元に至れば、命に届く鋭利な氷片が。
師匠は松浦の目を見て言った。
「どうせ逃がす気なんてないんだろう。いいよ。その物騒な『毒』とやらが、不純物次第であっという間に地球に優しい物質になるって話だろ。ただ、わたしなんかの鑑定にそれが期待できるのかな」
「それは私にも分からない。しかし少なくとも、あなたの専門分野のはずだ」
松浦はスーツの内ポケットに手をやる。しかし師匠が鋭く言葉を被せる。
「ちょっと待て。これは小川調査事務所への依頼か。それともお願いか。脅しか」
松浦は口の端を少し上げる。
「依頼、という答えを希望されているようなので、そう答えましょう。ここの規定の料金がいくらか知らないが、報酬はその五倍出します。それと、あなた個人へさらにその倍を」
師匠はそのタイミングに相応しい口笛を吹いた。どれほど緊張していても、吹くべき時に吹ける人は本当に器用なのだろう。
「でもそれ、わたしの鑑定とやらの内容次第じゃ、もらえないどころか…… って話だよね」
松浦はそれには何も答えなかった。
「金は要らない。わたしはヤクザが嫌いだ。その金に頭を押さえつけられたら、わたしはわたしを許せない」
師匠はあっさりとそう言った。
松浦の青白い顔から表情が消える。「断ると?」
心から、人の命を、なんとも思っていない。そういう声だった。僕の心臓は嫌な音を立てている。
「オバケは好きだ。怪談話を、聞こうじゃないか」
あっけらかんとした口調だったが、その端に極限までの緊張の欠片が覗いていた。
不器用な女だ。
ぽつりと、松浦の口元に表情が戻った。
懐に入りかけて止まっていた手が、ようやくその本懐を遂げ、一枚の紙切れを取り出した。
受け取った師匠はそれを面白くもなさそうに眺める。僕もその側に寄って、手元を覗き込む。
写真だった。いや、写真をコピーしたものか。
味気ない白黒の紙に、十人あまりの人間が写っている。
畳敷きの和室に着物姿の男が座っていて、その回りを囲むように軍服を着た男たちが正座をして背筋を伸ばしている。軍服たちは誰もみな若い。揃って微笑みの一つも浮かべず、ただ何か強い意思を秘めたような瞳をしている。
数えると軍服たちはちょうど十人いた。着物姿の男と合わせると十一人が和室の上座側の壁を背にしてこちらを向いている構図だった。背後の壁には鳥が飛んでいる掛け軸が見える。
古い写真だ。白黒コピーの前も、元からカラーではなかったことが推測できる。
戦時中に撮られたものだろうか。
師匠は怪訝な顔で、その写真の中ほどを見つめている。
着物姿の男がいるあたりだ。いや、正確にはその男の顔のあたりを見ている。顔を見ている、と断言できないのは、その着物姿の男の顔は大きく歪んで黒く潰れたような画質になっているためだった。体つきや服装で、男であること、そして周囲の軍服たちほど若くはないことも明らかだったが、どんな顔をしているのか全く分からなかった。
「その顔は違う。ただの複写ミスです。そんなことは分かっている。そんなことで霊能者を頼ろうとは思わない」
その顔のことではない。
松浦はもう一度そう言った。表情は変わらないが、まるで照れを隠しているように思えて、僕は少しこのヤクザに親近感を持った。
もう一度良く見ると、画像の歪みは着物姿の男の顔だけではなく、写真の中央のライン全体に渡って発生していた。
「順序だてて説明する必要があります。田村がこの複写の原本である写真をもたらしたのは昨日の朝。ある弁護士事務所のオフィスに持参してきたのです。その弁護士は我々の顧問を引き受けてくれている人物なのですが、田村はそれを知っていて、我々との交渉の端緒としてその弁護士事務所を選んだということです。確かにこんなもの……」
松浦はコピーを蔑んだような眼で見ながら、ふんと笑った。
「我々に見せたところで、その価値に気づくはずがない。特に若い衆などはね。田村は賢明でしたよ。弁護士先生はその手の話のマニアでね。アポイントもなしに訪ねて来た男の与太話から、ことの重要性を見抜いてすぐ私に連絡をくれました。『不発弾が出てきた』と。『それも核爆弾のだ』とも言ってましたっけ」
松浦はスーツの胸の内ポケットに手を入れ、一冊の本を取り出した。
文庫本だ。ページのところどころに付箋がついている。
『消えた大逆事件』
そんなタイトルが表紙に見える。
「この本はその弁護士先生に教えてもらったんですがね。なかなか興味深いものでした。大逆事件、というものを聞いたことがありますか」
大逆事件か。日本史で習ったことがあるような気がするが、はっきりとは覚えていなかった。
「天皇や皇太子など、皇族に危害を加えようとすることです。戦前の刑法では大逆罪として極刑に値する罪とされています。現人神であった天皇陛下にそんな恐れ多いことをするなんて、当時としては今よりも遥かに重い大罪ですよ。その大逆事件としては主に四つの事件が知られているようです。1910年の社会主義者らによる明治天皇暗殺計画。1923年の社会主義者・難波大助の起こした皇太子狙撃事件。1925年の朝鮮人アナーキスト・朴烈とその愛人、文子が計画したとされる大正天皇襲撃計画。そして1932年の抗日武装組織の闘士、李奉昌による昭和天皇襲撃事件」
松浦は親指から四本の指を順に折り、最後に残った小指を立てたまま続ける。
「いずれも失敗に終わっていますが、社会に与えた衝撃は非常に大きいものでした。内閣の責任問題となり、総辞職に至ったものもありますし、また一番有名な1910年のいわゆる幸徳事件では、幸徳秋水ら社会主義者の徹底弾圧にもつながりました。実際は、視察にやって来た皇族に危害を加えようとして取り押さえられるような突発的ケースなど、もっとあったはずです。しかし大逆事件として裁かれるのは、その行動に相応しい禍々しい背景と、高度に政治的な判断があってこそです。『ヤマザキ、天皇を撃て』の奥崎何某のようにただ目立ちたいがためにパチンコで天皇を狙撃するなどの、しようもない事件はたとえ大逆罪がまだ存在したころに起こったとしても、その適用はなかったでしょう。本来の大逆事件とは、社会主義者、無政府主義者の台頭、そして朝鮮独立運動の激化といった反政府的な背景があり、それに対して断固たる対処をするという意思表示の場でもあったのです」
松浦は文庫本のページを捲りながら淡々と喋っている。
だが、その眼は洞穴のようにひっそりと静まり返っていて、文字など追っていないように見えた。ただ、書かれている内容をなぞっているだけだ、というポーズのためだけに本を開いているような。そんな印象を受けた。だとしたら、松浦は、本の内容を記憶しているということだ。
ただでさえ暴力の世界に身を置いている人間という非日常的な存在だというのに、さらにそこからもはみ出している異質さを感じて、僕は得体の知れないものを見る思いがした。
また一枚、ページが捲られる。
「ところが、です。政治背景のない衝動的な安っぽい暴挙ではなく、重要な意味を持つ計画的な策謀だったというのに、大逆事件として歴史に残っていない一つの不可解な出来事がありました。昭和14年の夏のことです。昭和12年に起こった盧溝橋事件から、泥沼の日中戦争に突き進みつつあった当時の日本は、ソ連、アメリカとも衝突は不可避の状況にありながらも、未だ真珠湾攻撃には至らず、また欧州では世界を二分する最悪の大戦争、第二次世界大戦の前夜という際どい時期にありました。そんな折、北関東で行われる観兵式のためにお召し列車が出ることになり、警察の警護の元、天皇陛下のご一行が皇居を出立し、東京駅へ向かっているその途上で事件は起こりました。銃器で武装された集団により、鹵簿(ろぼ)が襲撃されたのです。わずか十名程度のその武装集団の動きは非常に統制されており、警護の警察の部隊と陛下ご搭乗の自動車を分断することに成功したそうです。しかし、陛下の車に銃弾が届く前に、陸軍の近衛歩兵連隊所属の部隊が駆けつけ、すんでのところで武装集団は鎮圧されました。未遂に終わったにせよ、本来であれば大事件です。大逆事件として法の裁きを受けるのみならず、その行動の背景にある不穏なもろもろのものを巻き込んで、大粛清の嵐が吹き荒れるほどの出来事だったはずなのですが…… 問題はその武装集団が、現役の軍人、それもすべて陸軍の若き将校ばかりで構成されていたという事実にありました。天皇の統帥権の下に存在するはずの、帝国陸軍の将校が、その天皇の命を狙ったのです。このとてつもないスキャンダルは、白昼の事件にも関わらず、即座に闇に葬られることとなりました。対中戦争のみならず、全方位戦争へと突き進みつつあった当時の大日本帝国において、この大逆事件と、それを生んだ背景など存在してはならないものだったのです。これが仮に、陸軍と海軍の軋轢から生まれた事件だったならば、陸軍がいかに揉み消そうとしても成功しなかったでしょう。しかし、この事件には、陸軍も海軍も、そして政界や財界に至るまで、既存のいかなる勢力も関与していませんでした。それゆえに、この暴挙は正式な裁判に掛けられることもなく、徹底した緘口令の元、秘密裏に処理されることとなったのです」
松浦が、一本だけ残っていた小指をゆっくりと折った。
隠された五つ目の大逆事件、という意味なのだろう。
「いくら戦時中とはいえ、実際に武装衝突を伴ったそんな大事件を揉み消せるものなのか」
師匠が至極当然の疑問を口にする。
「もちろん、不可能です。どれほどの人間が『処分』されたのかは、はっきりしませんが、軍が血道を上げたところで、遅かれ早かれそれを語る人間が出てきます。戦後になってから、その事件の研究が成され、こうして本にもなっているのですから」
松浦は手にした文庫本の表紙をもう一度こちらに向けた。
「しかし、その陸軍の将校たちは、何故そんな襲撃事件を起こしたのか、捕縛された後の尋問にも、一切口を割らなかったとされています。そしてそのまま全員が処刑されている。彼らの動機については、後世の研究においても判然としていないようです。一般的には社会主義運動の影響下にあったとされているようですが、加担した将校たち個々人の人となりを掘り進めて行くにつけ、そうした影が全く見えてこないのです。というよりも、まったく何一つ、彼らが天皇を襲撃・殺害するような理由など、ないはずなのです。この本をまとめた作者は、昭和14年、つまり1939年に起きたこの事件を、それに遡ること三年前、1936年に起きた二・二六事件と対比させて語っているのですがね。陸軍皇道派の青年将校が起こした、君側の奸たる中央幕僚を除かんとするクーデターだった二・二六に対して、1939年の大逆事件は明白な思想的背景がない。このことを著者は、『北一輝がいない』と表現しています」
「北一輝……」
師匠はその名前を呟き、なにか察したような顔をした。松浦も少しだけ眉を上げる。
「そうです。『怪物』、『隻眼の魔王』などと称された、社会主義者にして国家主義者。そして宗教家。著作『日本改造法案大綱』は、そのころ高度国防国家を目指す陸軍統制派と反目し、財閥資本と癒着する政治腐敗を看過できない皇道派青年将校たちの鬱屈したフラストレーションをクーデターへと駆り立てたと言われています。つまり、二・二六の理論的な首謀者、思想的背景と言える人物であり、クーデターが昭和天皇により賊軍と見なされたがために成就することなく鎮圧された後、それに連座する形で死刑を賜っています」
松浦は頁に目を落としたまま、その視線を全く動かすことなく淡々と語った。
「それに対し、この消された大逆事件のリーダーと目された人物は、実行犯でもある岩川雅臣という陸軍大尉で、近衛歩兵第四連隊旗下の中隊長でした。事件当時三十歳。取り立てて思想的な偏りをもたず、連帯して取調べを受けた上司である佐官たちも『なぜこの男が』と困惑するばかりだったそうです。そして他のメンバーもすべて三十歳前後の陸軍尉官ばかりでしたが、大隊や連隊を同じくするものはほとんどおらず、彼らがどのようにつながりをもっていたのかも判然としません。この事実は、陸軍内でもある種の戦慄を持って迎えられました。今上天皇を襲撃するという大罪を犯すのに、彼らの思考は、脳の中は、あまりに空虚だったのです。群れた青年将校が、理由なく大逆事件を起こす…… そんなことは二重の意味であってはならないことでした。だからこそ彼らは歴史の闇の中に葬られたのです」
しかし。
そう言いながら松浦は本を閉じ、師匠の持つ写真のコピーに目をやる。
「田村がもたらしたその写真に写る、軍服姿の男たちは、岩川以下、ほぼすべて消された大逆事件に連座した将校、つまり実行犯たちです。この本にも出ていますが、一人ひとりは、当時の様々な資料から顔写真が判明しています。しかし隊も違う彼らが一同に会した、このような写真は今まで世に現れていませんでした。恐るべき青春の肖像と言えるでしょう。そしてここにいる、人物」
松浦は身を乗り出し、写真の中心部を指さした。
「彼ら青年将校たちをまるで付き従えるように中央に座り、腕を組むこの和装の男こそ、この事件をめぐる、後世のどの研究にも出てこない影の首謀者。いないと言われた『北一輝』に他なりません」
偶然…… なはずはない。
事件を起こした、所属の違う青年将校たちがこうして一室に集まって写真に写っているのだ。そこに居合わせた人物が無関係なはずはない。間違いなく、彼らを扇動した男なのだろう。昭和史に欠け落ちたピースだ。
僕は予想外に大きく、そしてヤバさを増した話に、緊張で手のひらがじわりと汗ばむのを感じた。
話の流れから、もうその和服姿の男が誰なのか分かってしまったからだ。
「それが『老人』か」と師匠がぼそりと言うと、松浦が「角南大悟です」と後を受けた。「この青年将校たちの着る軍服は、昭和13年制式と呼ばれるものだそうです。そのことから昭和13年、つまり1938年から、事件が起きた1939年までの間に撮影されたものだということが推測できます。軍とは無関係の名家の出でありながら、陸軍士官学校に進学し、狭き門である陸軍大学校にも合格。卒業の際にはわずか成績上位六名のみに与えられるという恩賜の軍刀を授受した角南大悟は、陸軍大佐にまで昇進した後、胸を病み、予備役として一線を退きます。そしてこの1938年から39年のこの時期、彼は五十代後半で、座間にあった陸軍士官学校の教官の任についていました。正確には1928年から教官の職にありました。主に戦地における地形に関する課目を受け持っていたようです。重要なのは、この青年将校たちが、全員陸軍士官学校の卒業生であり、時期的にも教官・角南大悟の教えを受けていたであろうという事実です。もっとも、陸軍の幹部候補生はすべからく陸軍士官学校を出ているものであり、ただ陸軍士官学校生だったというだけで、実行犯である彼ら青年将校らを結びつけるヒントにはならないはずでした。ただ、元教官である角南大悟と彼らとが大逆事件の年かその前年に、こうして一緒に写っているこのような写真が出てくると話は全く変わってきます。もし仮に、陸軍士官学校時代に岩川たちが角南大悟の教えを受け、その信奉者となり、卒業後もその助言・讒言に従うがままに今上天皇陛下を弑逆しようとしたならば、実行犯でなくとも当然に連座し、思想的首謀者として死罪に値します。刑法から大逆罪が消え去った現代においても、その罪はとてつもなく重い。敗戦を経てなお、天皇という王を国民の上にいただくこの国においては、ね」
「確かにスキャンダルだな。選挙どころの話じゃない」
師匠はぼそりと言った。
「これが公になれば、事件当時二十歳と十八歳であり、すでに成人していた息子の角南総一郎と盛高の二人にも世間の非難の矛先は向かうでしょう。この写真一枚で、角南一族の命運は大きく変わることになります」
ですが、と松浦は声を落とした。
「この写真をどのようにしてか手に入れた田村は、我々の顧問弁護士の事務所に現れ、取り引きの仲介を依頼します。単に金が欲しいのであれば、角南家を強請ればいいはずです。誘拐事件の身代金どころではない、とてつもない金額が積まれることでしょう。しかしそうしなかったのは、この歴史の闇に葬られた真実を白日の下に晒したい、というルポライターとしての彼なりの想いがあったのかも知れない。そして角南家と敵対している、と彼が思い込んでいた我々の元へとやってくるのです。弁護士は冷静に状況を判断し、私に連絡をします。私はすぐに近くにいた若い衆を向かわせました。その写真の公表を条件に、あとは幾らで譲り渡すか、その腹の読み合いをしていた、いや、しているつもりだった田村は、現れた若い衆を見て、自分の読み違いを悟ります。つまり、我々もその写真を握りつぶす腹だということをね。田村は抵抗しましたが取り押さえられ、それを尻目に弁護士は事務所にあったコピー機で写真の複写をとろうとします。しかしその複写が完了する前に、一瞬の隙をついて田村が若い衆を振りほどき、弁護士を突き飛ばして写真を奪い返します。そして逃走したのです」
松浦は指を交互に組んで淡々と語る。
「若い衆ともみ合いになった時に、腹を怪我していた田村ですが、逃げ込んだこちらの事務所で応急処置をされ、その後も逃走したまま捕まらないでいます」
余計なことを、とも言わず、ただ事実として語っているような口調だった。
「我々の元に残された、この失敗した複写。肝心の『老人』、角南大悟の顔が黒く潰れて写っていないのです。これでは、毒としての価値は極めて弱いものとなります。早急に本物を持って逃走を続けている田村を押さえる必要があるのです」
「ちょっと待て、田村を押さえる必要があるのは、本物のスキャンダル写真を公表されたくないからだろう。なんで、すでに手中にあって握りつぶせるコピーの方の毒性が関係あるんだ。まるでそれじゃあ…… お前らも、角南家を強請ろうとしているみたいじゃないか」
師匠の問い掛けに、松浦は顔色一つ変えず、なにも答えなかった。ただ「説明を続けます」とだけ言って、失敗した写真のコピーに目をやった。
「この写真ですが、直接本物を見た弁護士先生の弁では、この中央の和装の人物は、間違いなく初老のころの『老人』だったそうです。弁護士先生はまだ『老人』が存命だったころの角南家とも仕事上での付き合いがあった人なので、まあ信用していいでしょう。またそれだけではなく、我々も裏を取るために、角南家につながりのある人間にこの複写の来歴そして人物たちを隠して見せたところ、『老人』が陸軍士官学校での教官時代に住んでいた横浜の別邸の一室で撮られたものに間違いないと証言しました。今でもその角南家の別宅は現存しており、この後ろの壁に掛かっている『寒中飛鳥図』の掛け軸もあるそうです。『老人』は本物。大逆事件の実行犯たちも本物。撮影された屋敷も本物。なのに、この写真には、不純物とも言える、おかしなところがたった一つだけあるのです」
昨日から言っていた、おかしなところ、か。
一体なんのことか分からないが、松浦が師匠に依頼をしようというのは、その不純物とやらが、師匠の得意分野、つまり心霊現象がらみのものだからなのだろうというのは想像がついた。
僕は緊張して唾を飲み込んだ。
松浦が口を開く。
「この軍服の襟を見てください。みな階級章をつけています。そのすべてに五本の縞が見えますが、これが尉官を表すものです。そして中の星の数でさらに階級が分かれます。星がなければ准尉、星一つで少尉、二つで中尉、三つで大尉という具合です。ここに写っている彼らのものは、すべて二つか三つ。中尉か大尉ということです。十人のうち、星三つなのは三人。まず、写真に向かって老人の右隣にいる岩川雅臣、そして左隣にいる早田二郎、最後が一番左の隅にいる正岡哲夫。残り七人は中尉ということになります。先ほど、この写真の男たちは、岩川以下、ほぼすべて消された大逆事件に連座した将校、つまり実行犯たちだと説明しましたが、たった一人、実行犯ではないものがいます。それが、左の隅にいる正岡哲夫大尉です。彼の名は、事件後の尋問中、複数のメンバーの口から漏れています。『正岡さえいれば』口々にそう言っていたそうです。そのために、メンバーの中の中心人物の一人として認識され、この研究本の中でも顔写真つきで紹介されています。本来であれば、岩川に成り代わってリーダーの任についていてもおかしくなかったその正岡ですが、なぜか実行犯には加わっていません。なぜか分かりますか。それは、彼がその事件当時、すでに死亡していたからです」
ぞくん、と肩になにか触れたような感覚があった。
僕は思わず身を震わせる。
「演習中に、誤って腹部に銃弾を受け、治療の甲斐なくそのまま亡くなったということらしいのですが、問題はその死亡時期です。1938年の6月に死亡しているのです。その時、正岡は二十九歳。一際優秀だった彼は二十八歳の時からすでに大尉でした。しかし、残るメンバーのうち、岩川と早田が大尉に昇進したのは1938年8月、二十九歳の時です」
それを聞いて、師匠が頷いている。そういうことか。そう言いたげな仕草だった。
「つまり、岩川と早田が大尉の階級章をつけているこの写真からは、撮られた時期が1938年8月から事件を起こすまでの間だということが分かるのですが、問題は1938年8月の時点で、正岡がすでに死亡しているということなのです」
僕はコピーされた写真をもう一度覗き込む。
左の隅に遠慮がちに座る男。眉が薄く、どこか子どもっぽさの残る顔立ちをしている。正面を見据えながら、無表情に口を引き結んでいるその男が、その写真を撮られる二ヶ月以上前にすでに死亡していた……
そのことが持つ意味が分からない僕ではなかった。
「心、霊、写、真?」
思った以上に間抜けな声が出てしまった。
師匠が僕を睨みつける。
しかしそういうことなのだろう。
軍隊という、究極の上下関係組織に身を置くのだから、こういう写真一つ撮るのにも、その座るポジションには決まりごとがある。中央にいるほど、そして前列にいるほど目上の人間だということだ。『老人』が中央なのは当然として、その左右につくのが大尉である岩川と早田。ここまでは分かる。しかし彼ら二人よりも早く大尉に昇進し、メンバーの精神的支柱でもあった正岡哲夫がこんな左の隅に座っているなんてありえないことだった。彼が、その場に本当にいたのならば。
「この左隅の人物は本当にその正岡哲夫なのか」
「少なくとも資料に残る正岡大尉の写真に極めて似ています」
松浦は研究本の頁を開いてこちらに見せた。
そこに出ている正岡の顔は、確かに目の前の写真の人物と瓜二つだった。
「仲間だったという証言があり、現にこれだけ似ているのです。正岡大尉ではなく、別人である可能性は低いでしょう」
師匠は小さく唸った。そして「その、正岡の死亡時期と岩川たちの大尉昇進時期の信憑性は?」と、さらに確認する。
「弁護士先生がその齟齬に気づきましてね、それが事実ならばこの写真の持つ意味が根底から崩れてしまう。最優先で裏を取りましたよ。いずれも軍の記録にはっきりと残っています。結論として、正岡の死亡は38年6月。岩川、早田の大尉昇進は同年8月で間違いありません」
「だったらこいつは」と言いながら師匠は写真の顔のあたりを小突いた。「その幽霊ってわけかい」
「それを調べるのが、私の依頼する、あなたの仕事です」
心霊写真の鑑定をしろというのか。これほど大変な事件に関わることに、そんな胡散臭いことを絡めていいのか、という至極当然の思いが湧いた。
しかし、死んでいて、もういないはずの男が写っているなんていう怪しい写真が、この歴史的スキャンダルの唯一の証拠写真だなんて、その噛み合わない感じがおかしくて僕は落ちつかなかった。
松浦と師匠は、お互いの視線を正面から受け止めあい、しばらくその瞳の奥のものを読み解こうとするかのようにじっと動かないでいた。
やがて師匠は力を抜いたように笑い、「ま、いいけど。ちょっと時間が欲しい」
「どのくらい」
「二日」
「だめだ」
師匠は松浦を睨む。
「じゃあ明日にはなんとか」
「だめだ」
松浦がそう言い切った後、三十秒ほどの沈黙ののちに、師匠が「今夜中に」と言った。
松浦は「いいでしょう」と頷き、「それは複写の複写です。今夜まで預けますが、余計なことを考えると、ためにはならないことを申し添えておきます」とごくあたりまえの口調で付け加えた。
しかし、その言葉は、彼の使う若い衆などの脅し言葉などよりよほど真に迫る危険さを秘めていた。
「ああ、それと」
立ち上がりかけた松浦はもう一度腰を落とし、懐から封筒を取り出した。その中から数枚の写真が出てくる。
「私は、再現可能性というやつを重視するのでね。あなたの『鑑定』の説得力も重要ですが、同じことを同じように再現する証明方法も大切なものです。この写真、いずれも心霊写真と言われているものですが、それらについても真贋について『鑑定』願いますよ」
松浦が師匠に提示した写真は、全部で四枚。
海辺で家族連れが撮ったと思しき記念写真には、立っている男の子の両膝から先が写っていない。
カップルがアイスクリームを手にピースをしている写真には、女性の方の肩に誰のものとも知れない手が乗っかっている。
家の前で取られた写真では、母親と男の子が写っているその後ろ、家の窓に薄笑いを浮かべている不気味な男が薄っすらと見えている。
飲み会の席での一場面を写したものには、盛り上がる人々の後ろにもやのようなものが現れ、そのもやがやはり人の顔のように見えた。
「急遽つてを辿ってかき集めたのでね、どれも本物かどうか私にも分かりません。しかし、それが撮られた背景はすべて把握しています。適当なことを言ってもバレますよ」
「メインと合わせて全部で五枚か。それで報酬が五倍かよ。偉そうに言ってたわりに、計算どおりじゃないか」
師匠の軽口に、松浦も応じる。
「あなたにはさらにその倍を、と言ったはずです。信用できないなら、いま手付け金を」
懐に手を入れかけた松浦を、師匠が制する。
「金は要らないと言ったはずだ。わたしの望みは、とっととこの茶番劇が終わって、ヤクザのいない平穏な日常が戻ってくることだけだ」
「俺は、金を要らないという人間は信じない。ここまで知った人間をただで解放すると思うか。依頼は果たせ。それを果たすことを、金も取らず、どうやって俺に信用させる」
松浦の口調と、その背負う空気が変わった。
返答次第では、ただではすまない。それが分かる。
異様な緊張感の中、師匠がうっそりと口を開いた。
「わたしには、これしかないんだ。そんな人間のプライドを、お前は笑うか?」
とても澄んだ目で、表情で、師匠はそう言ったのだ。
松浦は一瞬、うろたえたような、そんな風に見えた。だが、すぐに無表情に戻り、いいだろう、と呟いた。
そして名刺を水平に飛ばすようにして投げ、キャッチした師匠に「今夜九時までに連絡を入れろ」と言い置いて立ち上がった。
そしてドアから出て行く時に、なにか言おうとして立ち止まりこちらを振り向いたあと、そして結局なにも言わずに向き直るとそのまま去って行った。
やがて階下にエンジンの重低音が響き、その音もすぐにどこかへ行ってしまった。
僕はようやく深い息を一つついた。
ぐったりと疲れている。ただ聞いていただけなのに。硬直し、止まっていた空気がようやく流れ出したような気がする。
「なんなんですか!」
僕はそう喚いた。
「消えた大逆事件だのなんだの、わけのわからないことばっかり言って、挙句が心霊写真ですか。なんの茶番だって言うんです!」
「まあ落ち着け」
師匠は手にした写真のコピーに目を落としたまま、まだ身動きをしない。
「所長の留守中に、勝手にこんな依頼を引き受けて、どうなっても知りませんよ」
「うるさいな。ちょっと静かにしろ」
「だいたい、これが心霊写真ですか。こんなにはっきり写ってるじゃないですか。これは人間ですよ、普通の。それが正岡なんとかだってんなら、死んだ時期か、撮影時期か、どっちかが間違ってるんですよ」
「その可能性が低いから、この写真の信憑性が疑われてるんだ」
「心霊写真だからって言うんですか。これは世紀の大スキャンダルを暴く貴重な写真ですが、信憑性に疑問があります。なぜなら心霊写真だからです。ってわけですか、馬鹿馬鹿しい。いったい信憑性ってなんなんですかね。だいたい、あの松浦とかいうヤクザ、なんでこんな大それたヤマに、こんなインチキ臭い興信所を巻き込もうとしてるんですか」
「静かにしろ」
師匠は喚き散らす僕に目もくれず、松浦の残していった『心霊写真』だという四枚の写真の方に手を伸ばす。
「あいつは、見えてるよ」
一枚一枚、丁寧に眺めながら師匠はぼそりと言った。
「え? なにがですか」
「霊の話をしてると、寄って来るって話、昨日したろ」
した。確かに、松浦の前で師匠はそう言った。その直後、松浦は師匠と同じように窓の外に顔を向けたのだ。
僕が子どものころならば、「バカが見る、ブタのケツ」とでも言って、その臆病振りを小馬鹿にするところだ。
しかし師匠は驚くようなことを言った。
「あれ、通ってたんだよ。窓の外に」
「は?」
「浮遊霊の類かな。髪がぼさぼさに伸びた女だか男だか分かんない気持ち悪いのが。そういう話に惹かれてだと思うけど、すうっ、とな。だからそう言ったんだけど」
僕は唖然とした。そんなもの、全然気づいていなかった。ただの冗談だとしか。
「あいつは、見えてたよ。わたしが話を振るよりも一瞬早く、そっちに顔を向けてた」
そんな。
しかし妙に符合するものがある。あの、師匠と松浦が二人して窓の外を見た後、驚いたような表情で真っ直ぐに向き合ってお互いをしばらく見詰め合っていた。
あの瞬間、口には出さずとも、互いに認め合ったということか。
胸の奥がチクリと痛くなった。
僕には、見えていなかった。
師匠が四枚のL判写真を机の上でトントンと整え、また一枚目から丹念に眺めていく。
幽霊を信じるヤクザ。
それを笑いたい。役に立たない自分の代わりに。
幽霊を信じるなら、人の恨みを買う、そんな家業から足を洗えばいいのに。馬鹿なやつだ。
それを笑いたい。
笑いたかった。
静かに時間が過ぎた。
十分ほど経っただろうか。ふいに事務所の電話が鳴った。
ドキリとした。電話の音はなぜこんなに人を不安にさせるのか。
「はい、小川調査事務所」
師匠が電話に出る。しかし、会話は続かなかった。
「もしもし? もしもーし。小川調査事務所ですが」
師匠はもしもし、と繰り返している。電話が遠いのだろうか。僕は思わずそばに近寄って、師匠の持つ受話器に耳をくっつける。
「もしもし? 聞えないから、切りますよ。いいですか……」
師匠はそう言ってから、たっぷり十秒待って、口を開いた。
「田村か」
電話の向こうで、笑う気配。
「田村だな。どういうつもりだ」
電話を掛けてきたのは、田村なのか。松浦が石田組を挙げて捜索しているにも関わらず逃げおおせている張本人の。
「心配しなくても、石田組のやつらはいない。押し掛けて来たけど、もう帰ったよ。全く、お前のせいでこっちはいい迷惑だ。どう仕舞いをつけるつもりなんだ」
師匠が田村を非難しながら、空いている方の手で着ているジャケットの内側を探っている。そしてなにか紙のようなものを取り出した。
「こんなやばいもの、預けやがって」
僕は本当に驚いた。目を疑うというやつだ。
師匠が懐から取り出したのは、写真だった。それも、色褪せてはいるが、複写される前の、消えた大逆事件のメンバーたちが『老人』を囲む写真。和服姿の初老の男の顔に、なんの歪みも、汚れもない正真正銘の、現物。眉間と頬に深い皺の刻まれた厳しい顔が、すべてを見下すようにわずかに顎を上げてみせている。
なぜ。なぜここにオリジナルが。
その言葉しか頭に浮かばなかった。だが、すぐにその答えも見つかる。
あの時だ。礼も言わずに帰るのか、と師匠が言った後、田村がよろけるようにして肩をぶつけ、去って行ったあの時。あの一瞬に、田村は隠し持っていた写真を師匠の服のどこかに滑り込ませたのだ。
師匠はそれに気づいていながら、ヤクザたちの尋問にもすっ呆けて押し通していたというのか。
「どうしてなんだよ」
師匠が写真を手にしたまま、問い掛ける。その写真の裏側に、鉛筆で走り書きがしてあるのに気づいた。
老人
そう書いてあった。師匠の字ではない。
そうか。また、ふに落ちるものを感じた。師匠が昨日の松浦との会話の中で、『老人』の名前を出した時、なぜそれを知っている、と問い詰められ、田村がうわごとでそう言ったと答えたのだが、僕の記憶している限り、田村は意識を失うことはなかったはずだった。痛みと疲れで息をするのがやっと、という状態だったが、それでも油断なく周囲に意識を張り巡らせていた。
師匠は『老人』の名を、田村から聞いたのではなく、写真の裏側に、まるでその写真の主題であるかのように書かれた文字から知ったのだ。そしてその『老人』とはなんなのか、危険を承知で松浦にカマをかけた。
『…………逃げ切れる自信がなかったからだ』
田村の声だ。確かに受話器の向こう側にいるのは、昨日小川調査事務所にふらりと現れて、そして去って行ったあの男だった。
『やつらに捕まっても、写真が手元になければ、俺の命を保障する、有効な取引材料になる』
「そのせいでわたしたちを巻き込んだのか」
『……悪いとは思っている。しかし背に腹は代えられない、ってやつでな』
「病院には行ったのか? 傷はどうだ」
『気にするな。どうってことはない』
「よく逃げ切れたな。捕まったって聞いたぞ」
『奇跡的にな』
「誰か刺しでもして振り切ったのか」
『本職相手に、そんなこと出来るわけがないだろう』
師匠はそこでなにか少し考えるような間を空けた。そうして確かめるようにゆっくりと問い掛ける。
「あの電話、お前か」
あの電話?
一瞬何のことか分からなかったが、ふいに閃くものがあった。小川調査事務所に掛かってきた、田村を見つけた、という電話だ。あの時は、老けた顔のヤクザが電話を取ったのだが、あの電話のおかげで小川調査事務所からマークが外れたのだった。
もしあのままなら、ひょっとすると拷問まがいの本格的な取調べをされ、師匠がその時持っていた本物の写真も発見されていたかも知れない。
そして結果的に田村は捕まっていない。そう思うと、あの電話にはなにか作為的なものを感じるのは確かだった。
『…………』
電話口で十秒ほどの沈黙があった。やがて湿ったような音が聞えてくる。
『何のことか分からないな』
師匠は舌打ちをする。
「まあ、どっちだろうと良いんだがな。なぜわたしが、やつらの脅しに屈してこの写真を渡してしまわないと思ったんだ」
『…………俺と同じ匂いを感じたからだ』
「なんだそれは」
くくく、と電話口で笑う声がする。
『ヤクザが嫌いだろう』
「それだけかよ」
『いや。好奇心、猫を殺す、ってな。お前も、俺も、そういうタイプなのさ』
「近頃は、克己心だって猫を殺すらしいぞ。お前、こんな自分の身に余るネタを握ってどうしようってんだ」
『それは俺の勝手だ』
「あっそ。だったら、この写真、やつらにくれてやりはしないまでも、灰皿の上で火をつけりゃ、あっという間にケムになるぞ。どこに隠れてるのか知らないが、お前が走って消しに来たって間に合わない」
見えないだろうに、師匠は所長愛用の灰皿を手元に引き寄せ、ライターの火をつける真似をした。
『そんなことをすれば、近代日本史の闇の一つが、永遠に失われる』
「大袈裟だな。ただの写真だろ。とにかく、どうケリをつけるんだよ」
師匠がそう言うと、相手は黙り込んだ。
僕は唾を飲み込む音を聞かれないように、少し離れた後、また受話器に耳をつける。
『…………駅前にロッカーがある。その……54番に、その写真を……いや……』
そこでまた黙った。
聞き漏らさないように、僕はメモ帳とペンを手探りで手元に引き寄せる。だが田村はそこで会話を止めた。
『また連絡する』
「おい、ちょっと待てよ。おい」
電話は切れた。
僕と師匠は顔を見合わせる。
切りやがった。どういうつもりなんだ。そう文句を垂れる僕の憤りを軽く聞き流しながら、師匠はなにかしたり顔で頷いている。
「びびってるねえ。疑心暗鬼ってやつだな」
「田村がですか」
「そうだよ。さっきは駅のロッカーを使って、写真の受け渡しの指示をしようとしたんだ。だけど、それを取りにノコノコ出てきたところを、石田組のやつらに待ち伏せでもされたらイチコロだからな。当然わたしなんか信用できなのさ。だけど、石田組のやつらが危惧してるみたいに、他の石田組と対立してるヤクザどものところへ逃げ込むことも出来ないでいる。結局、疑心暗鬼に陥って、今は誰も信用できず、どこか誰も知らない場所で息を潜めてるんだよ。さっきここへ電話して来たのだって、勇気が要っただろうに」
師匠が大袈裟なポーズで哀れんでみせている。
「あの感じじゃあ、しばらくは田村からも連絡はないな」
「どうするんですか」
「決まってるだろう。写真の、謎を解くだけだ」
師匠は全部で五枚の写真をまとめ、松浦が残していった封筒に入れた。
◆
それから僕らは連れ立って小川調査事務所を後にした。
師匠は「餅は餅屋だ」とだけ言って、行き先は告げなかった。僕はただそれについて行った。
JRの駅に向かったので少しドキドキしたが、ロッカーには近寄りもせず、切符を買って改札を抜けた。
一番安い切符だった。
普通列車はさほど混んではいなかった、師匠が乗車口の近くで吊り革につかまって立っていたので、僕もそうする。
どこへ行くのだろうと思っていると、出発のチャイムが鳴り出した。そしてドアが閉まり始めた瞬間だった。
「降りるぞ」
師匠はそう言いざま僕の手を掴み、無理やり引っ張って、閉まるドアをすり抜けるように電車から飛び降りた。
乗る電車を間違えたのかとも思ったが、師匠はホームに降りた瞬間、左右を素早く見回した。
「誰も、降りなかったな」
「ええ」
師匠はふん、と頷いた。
まさか、と思ったが今のは尾行をまく時の手ではないだろうか。
「尾行されてたんですか」
「いや、念のためだ」
師匠が言うには、松浦が尾行をつけさせた可能性があったのだという。こちらが田村とつながっていることを疑い、泳がせておいて接触したところを押さえる腹かも知れないのだと。確かに、結果的にあわやそうなるところだったわけだから、そんな馬鹿なとは僕も言えなかった。
しかし尾行者はいないようだった。
「お前はまだ素人だからな。尾行のことを話せば、もし本当にされていた場合、こちらが気づいたことを相手に気取られる危険性があった。そうなると、こんな電車を使った古い手が通用しないことも考えられたけど…… まあ、取り越し苦労だったと思っていいだろう」
本当に熟達したやつの尾行は警戒していても簡単には見抜けない、と師匠は言った。この世界を多少なりと覗いた師匠が言うのだから、僕は頷くしかなかった。
それから僕らは電車に乗ることなく、そのまま買った切符で駅を出て、繁華街の方へ向かった。
途中、師匠は自販機の前で立ち止まった。あまり見ない、サンガリアの自販機だった。そこでメロンソーダを三本も買ったので、どうするのかと訊くと、差し入れだという。
「あのデブ、これが好きだからな」
その一言で、これから向かう所がどこなのか分かってしまった。
それから僕らは繁華街から少し裏へ入った通りを進み、薄汚れた小さなアパート、いやアパートのようなマンションの前で止まり、中へ入っていった。
なんだか小汚い印象のエレベーターを使い、三階の中ほどにある部屋が目的地だった。表札はない。新聞の勧誘や訪問販売の人間につけられたのか、小さなシールがドアの端に幾つか貼られている。
『写真屋』と呼ばれる男の部屋だった。
本名は確か、天野と言ったか。
通り名のとおり、写真を生業にしている男だったが、いわゆる普通の写真屋ではなかった。
街なかの普通の写真屋に持ち込んだのでは、フィルムを現像してもらえないような種類の写真を、少々割高な値段で何も言わずに現像してくれるという類の、そういう商売だ。
いや、僕も最初のころは単純にそう思っていた。
この『写真屋』は、小川調査事務所も浮気調査に関する証拠写真などの現像で贔屓にしているのだが、師匠は個人的にもこのアンダーグラウンドな世界の住人と仲が良く、悪友とも言える関係を築いていた。
「写真屋、いるか」
師匠はチャイムを鳴らした後、ガンガンとドアを叩く。中から物音がしたかと思うと、しばらくしてドアが細く開けられる。
「ぼくがいないことがあったか」
眼鏡の奥の暗い目がドアの隙間から覗く。
ドアチェーンが外され、僕らは部屋の中に招き入れられた。中に入ると、異臭としか言いようのない匂いが鼻をつく。
部屋中のいたるところにゴミが散らかっているが、匂いの原因はそれだけではない。この部屋の主人は、その一室を暗室に改造して、そこで現像作業をしているのだ。その時に使う液体の匂いがこの異臭の主たる原因だった。
『写真屋』はその暗室のドアの前を通り過ぎ、片方の足を引きずりながら、部屋の奥に進むと、三台のパソコンに囲まれた机にとりつくようにして座った。
「差し入れだ」
師匠が三本のメロンソーダを差し出すと、彼は薄っすらと笑いながらそれを受け取った。いや、笑っているというより、癖なのだろう。喋っている間もずっとしゃっくりあげるように変な笑い声のような空気が漏れるのだ。「ひ」「ひ」という具合に。
髪は伸び放題で、見るからに風呂にもめったに入っていないような不潔感がある。そしてはち切れんばかりに膨れた腹や顎、そして二の腕の肉。部屋に満ちているのか、自身の身体から漂ってきているのか、その匂いも含め、すべてが生理的な嫌悪感を抱かせる男だった。
「今日は助手君も一緒か、探偵」
僕はこの男を好きになれないのだが、どうも、と当たり障りのない挨拶をする。
「今日はちょっと訊きたいことがあって来た」
師匠は背負っていたリュックサックを下ろし、その中をガサガサと漁る。
「おっと、その前に、報酬を決めようじゃないか」
「あん?」
師匠が手を止め、険悪な顔をして睨みつけた。
こういう、悪そうな顔をさせると師匠は本当に様になっている。
「どうせやばいネタなんだろう。僕の口を硬くするのは金の額だけだ。金は要らないなんていう『写真屋』に、誰が人間の真実の姿が写り込んだフィルムを持ち込むもんか」
「なにが人間の真実の姿だ。変態どもがお前のところに持ち込んでるのは、ただのエロ写真だろうが」
「失礼だな、それも真実の姿の一つさ。アホなカップルが街なかで顔をくっつけ合ってイエーイって間抜け面晒して写ってる写真に、本当に写るべきものは一本の棒と一つの穴だ」
ひ、ひ。
と喋る合間にも空気が漏れる音が混ざる。
「だけど、最も奥深い所にある、人間の真実とは…… ひ…… そんな下劣なものとは程遠い、神秘的なものだよ」
こんな風に。
『写真屋』は机から一枚の写真を取り出して見せた。
何が写っているのか察した僕は咄嗟に目の焦点を合わさないようにしたが、それでも少し見えてしまった。
人間の頭が砕けて、血と脳がアスファルトの上に飛び散っている写真だった。
この『写真屋』の本当の商売がこれだ。
二倍程度の料金を払って、普通の写真屋では現像してくれないエロ写真の類を現像する仕事が世の中にはある。しかし、その特殊な写真屋でも現像してくれない、本当にアンダーグラウンドな写真がこの世にはあり、さらにその数倍の料金を受け取ってそれを現像する、現行法からもそして常識からも掛け離れた倫理観を持つ『写真屋』。
それがこの男の生業だった。
「おい、それが写真屋の守秘義務か」
師匠がそう突っ込んだが、『写真屋』はそれを仕舞いながら「これはぼくの私物さ」と言った。
まあどうでもいいけど。
師匠は溜め息をついた後、「なあ、アマノちゃん」と声色を変えた。
「わたしとお前の仲じゃないか。硬いこと言わずに協力してよ。な」
「いや、駄目だ。ケジメは大切だ。僕は金しか信用しない」
さっきの松浦と同じようなことを言っているが、その二人の人間性やビジュアルの差を思うとなんだかおかしかった。
「いや、駄目だ。ひ。ケジメは大切だ。ひ。僕は金しか信用しない。うひ」
師匠が『写真屋』の言葉を真似して、それを大袈裟に再現して見せた。馬鹿にするためだ。
からかわれて、さすがに『写真屋』は鼻白んだ。
なにか言い返そうとした瞬間、師匠はその開きかけた口を右手の手のひらで押さえ込んだ。アイアンクローのような格好だった。
「おい、てめぇがわたしの写真でせ○ずりこいてんの知ってんだぜ。ご大層な理念を掲げるのは結構だが、その写真、燃やされたくなかったら黙って言うこと聞け、この野郎」
瞬間的な迫力、とでも言うべきか。
いきなり豹変したような勢いで脅しつけられ、『写真屋』は目を泳がせながら、とっさに頷いてしまった。その顔に、しまった、という表情が浮かんだが、もう取り繕えないようだった。
「あ~あ、汚ったな」
師匠は『写真屋』の口元の涎がついた右手を振って、机の上のティッシュを数枚抜き取った。
「くそう」
写真屋はなにかぶつぶつ言っていたが、机の上を片付け始め、そして折り畳み椅子を出してきたかと思うと、二つ並べて置いた。
「で、なにが訊きたいんだい」
諦めたように溜め息をついて、『写真屋』は切り出した。
空気が澱みきっているが、窓を開けていないどころかカーテンも締め切っており、それもどこで買ったのかというような厚手なので、電球の明かりの下、一体今が昼なのか夜なのか分からなくなる。
時計を見ると、まだ昼の十二時を少し回ったころだった。
「これなんだけど。専門家の意見を訊きたい」
師匠はリュックサックの中から封筒を取り出し、その中から写真を抜き出した。田村の持っていたものと、松浦から預かった四枚。合わせて五枚すべてを。
引き出しから薄い手袋を取り出して両手にはめ、『写真屋』はそれらを手に取る。
「心霊写真かい。専門家は…… ひ…… そっちじゃないか」
「まあそう言うな。心霊写真は苦手なんだよ」
「ふうん」
すべてに軽く一瞥をくれてから、机の端に並べて置いた。
そして春だというのに身体を動かしもしないまま汗を額に浮かべて、差し入れのメロンソーダの蓋を開けて勢いよく呷る。
「おい、貴重な写真もあるんだ。汚すなよ」
「ふん。もう見終わったよ」
そう言って大袈裟な仕草で写真から椅子ごと遠ざかる。
「ええと。まず、飲み会の写真だけど。これは煙草の煙だろうね。ほら、このハゲ親父が、テーブルの上に不自然に右手を伸ばしてる」
遠くから芋虫のような指で写真を指し示す。
「手前の人の身体で見えないけど、この隠れた手の先に灰皿があるのさ。そこから上がって来てる煙が、ストロボで浮かび上がって見えてるだけだ。それが人間の顔のように見えるのは、まあ偶然だろう」
「ほう」
師匠はやけに熱心に頷いている。
「あと、この海辺の家族連れの写真。たぶん、右膝が消えてるとか言って、心霊写真扱いされてるんだろうけど、よくある勘違いだね。これは撮影速度が遅いせいで、男の子が右足を動かした瞬間に、透けたように見えているだけだ。こっちの手をごらん。お父さんの腰のあたりを掴んでいる。ここで重心の変化を支えているから、足以外はぶれてないんだ。そのせいで余計に足が透けているのが目立っている」
『写真屋』は解説を続けながら、二本目のメロンソーダの缶を手に取った。
「……それから、と。カップルの写真はどうかな。これはイタズラの可能性が高いね。二人の背後に、ちょうど人間一人くらい隠れられる。二人の身体が離れている部分があるから、そこを上手く避けて、となるとかなりアクロバティックな格好になるけど、不可能じゃない。偶然なはずはないから、こういう写真を撮ろうとして三人で遊んでたんだろう。あと、この家の窓に男の上半身が薄っすら見えてるのは、どうだろうな。二重露光にも思えるし、室内灯の光の当たり具合が良く分からないけど、単にそこに人がいたという可能性もある。少なくとも、幽霊なんてものを持ち出さなきゃならない写真には思えないな」
彼は二本目を半分ほども飲んだところで、ゲップをした。長いゲップだった。師匠は良くこんな生理的に気持ちの悪い男と一緒にいて平気だなと感心する。
「最後は、なんだこりゃ。年代ものだけど、普通の写真じゃないか。どこが心霊写真なの」
逆に訊ねられた。
「この中の誰かに、不自然なところはないか」
師匠にそう言われ、もう一度写真に顔を近づける。しばらく唸ったあと、彼はやはり同じ答えを出した。
「古い写真は得意じゃないけど、別におかしなところはないと思うよ。影のでき方なんか見てもね」
そう言って二本目の缶の残りを飲み干す。
僕ももう一度まじまじとその戦時中に撮られたという白黒写真を眺める。整然とした和室に、和服を着た初老の男が腕組みをして座り、その周囲に軍服姿の青年たちが正座をしている。彼らは二十八、九から三十歳くらいのはずだったが、どの顔も、現代の同じ年齢の日本人よりもどこか幼く見えた。だが、誰一人として笑いもせず、唇を引き結んで、正面を見据えている。画質のせいなのか、彼らのその相貌がやけに青白く見えた。
「こいつはどうだ」
師匠はついに、左隅にいた正岡大尉を名指しした。先入観を持たせないために、ここまであえて避けていたのだろう。
だがその問いにも『写真屋』は大した関心を示さず、「おかしなところはないね」という答えを繰り返しただけだった。
だが師匠は諦めず、表現を変えて質問を続ける。
「偽造の可能性は」
「偽造? 写真の加工ってこと?」
『写真屋』は鼻で笑った。「おかしなところは……ひ……ないって、いったろ」
「こいつが、実際にはここにいなかったのに、いるように見せるのは無理か」
「このくらい違和感のないフェイクを作るのは難しいね。ネガの編集にしても、プリント後の加工にしてもね。今の技術でも、難しいんだ。当時のテクじゃ無理だろう」
まあ、これからはこいつが……
と、『写真屋』はパソコンの箱を手のひらで叩いて見せた。
「あらゆる写真を自由自在に編集するようになっていくだろうけど」
そのころは、ワープロがやっと普及してきた時期であり、パソコンなど持っている人はまだまだ少なかった。僕自身、キーボードに触ったことすらなかった。
「撮影は戦時中でも、偽造を施すためにプリント時期を偽っている可能性は」
師匠はまだ粘っている。
「最近プリントしたってことか。ふん。紙質にも違和感はないね。それ相応の年代モノだよ」
それを聞いて、ようやく納得したように一つ頷くと、師匠は背中を掻いた。
「ここに来ると、なんか痒くなるんだよな。ダニとか、ノミとか、飼ってるんじゃないか、お前」
「ノミは知らないけど、水虫は飼ってる」
うへ、という顔をして師匠は後ずさる。
「うつされる前に退散するが、あと一つだけ教えてくれ」
そう言って師匠は、封筒に指を入れ、まだ中に残っていた一枚の紙を取り出した。
松浦に預かったコピーの方だ。
それを『写真屋』の方に向け、こう訊ねた。
「このコピーと、その写真は、同じものか」
ふいに、僕の中に疑念が湧く。
なぜ師匠はそんなことを言うのだろう。コピーだと今自分でも言ったではないか。それに言うまでもなく、同じ構図、同じ男たちなのだ。
『写真屋』は両者を見比べ、つまらなさそうにぼそりと言った。
「コピーは専門外だけど。全く同じに見えるね。この写真をコピーしたんだろう。この中央は焼きミスだね。もしかして、同じネガの別プリント写真のコピーじゃないかってことか? だとしたら分からないとしか言いようがない」
師匠はその答えを反芻するように、しばらく頷いていた。
そして、「よし」と言って膝を打ってから立ち上がった。
「邪魔したな」
「あ、もう帰るの」
あれほどただ働きを嫌がっていたのに、『写真屋』はなぜか名残惜しそうに口を尖らせた。師匠はそれを見て、ニコリと笑うと「またな」と優しい声で言った。
異臭にも少し慣れつつあったそのマンションの一室から出た直後、僕は師匠に耳打ちをする。
「その、せん……の写真って、盗撮でもされたんですか」
「なんだって? ああ、わたしの写真か。盗撮といえば盗撮だな」
「取り返した方が良くないですか」
「いいよ、めんどくさい。どうせ焼き増しして、分かんないところに隠してんだろ」
師匠が良くても僕は困る。
「良くないですよ。あの変態にそんな写真持たれて、何されるか分かったもんじゃないですよ」
「なんだ。酷い言われようだな、あいつ。そんな写真って、どんな写真だと思ってんだ」
「え」
僕は思わず口ごもった。
そういう写真に決まっているではないか。古式ゆかしい表現で言うところの、無防備な……
いやまて、もっと凄い写真かも知れない。え、うそ。まじで。
想像が頭の中をぐるぐると回る。
ええ? そういう写真なの。いやでもまさか、ああいう写真とか。まずいまずい。実にまずい。まずいですぞ、これは。
「おい。大丈夫か。とっとと出るぞ、こんな水虫屋敷」
そう言って師匠はエレベーターの方に向かって歩き出した。
◆
マンションの外に出ると、日差しが目に沁みた。締め切った部屋の人工の明かりは、やはり太陽光線よりも弱いものらしい。
師匠は時計を確認してから、近くの電話ボックスに入った。そしてどこかに電話を掛け、出てくるなり「一度家に戻るぞ」と言う。ハンドルを握るジェスチャーをしていたのから、車を取りに行くらしい。
「次はどこに」
「寺だ」
寺。
ピンと来た。
行ったことはなかったが、師匠がよくオカルト関係の怪しいモノを仕入れてくる寺があると聞いていた。そこに違いない。
焚き上げ供養で密かに有名な寺らしいのだが、その裏では燃やしたはずの曰くつきの物件をマニアに横流ししているという、とんでもない悪徳坊主がいるそうだ。
それを買う方も買う方だが、師匠につれられて、そういうアイテムばかり売っている胡散臭い市(いち)に行った時、僕もそこに出ていたクマのぬいぐるみが気に入って買ってしまったので同罪だった。
そのぬいぐるみは、夜中に時どき歯軋りのような音や、すすり泣く様な声を出して僕を不安な気持ちにさせるお茶目なやつだった。
途中でスーパーに寄っておにぎりや菓子パンを買い込んでから、僕らは師匠の家に到着した。休む暇もなく、すぐに駐車場に止めてあった年代物の軽四に乗り込む。
僕は助手席に座ってシートベルトを締め、スーパーの袋をガサガサと漁る。目の前をスケートボードでノロノロと横切ろうとしていた子どもに容赦なくクラクションを鳴らして、師匠は軽四を発進させる。
「シートベルト。シートベルト締めて下さいよ」
僕が指摘すると、師匠は「わたしが免許取った時には、そんな義務なかった」とぶつぶついいながらめんどくさそうにベルトを引っ張った。こういう時に、僕は師匠の間のジェネレーションギャップを感じる。
おにぎりやアンパンをお茶や牛乳で流し込みながら、車を走らせ続け、僕らは北へ北へと向かった。
「結局、あの将校たちの写真は、心霊写真なんかじゃないんですかね」
道路沿いに商店や民家が少なくなっていく景色が走り去っていくのをぼんやりと眺めながら、僕はなにげなく訊いてみた。
どうせ答えてくれないだろうと半ば分かっていながら。
「さあなあ。『写真屋』は、普通の写真だろうって言ってたな」
師匠は人ごとのようにそう言う。
「どうしてそんなに他人ごとなんですか。自分こそ専門家でしょう。家にも一杯心霊写真集めてるのに」
「好きなんだけどな。それぞれが本物かどうかは自信がないな。わたしは生で見るのが得意なタイプなの。写真はなあ…… 仮に死者が怨念だから執念だかで、フィルムに写りこんだとしても、だ。そのフィルムが現像され、ネガをプリントした場合、その写真一枚一枚にまで、怨念が乗っかってないんだよな。撮影場所とは関係ないどこか遠い場所でさ、何ヵ月後か、何年後か、そして何枚も何十枚もプリントされてさ。その全部に怨念がこびりついて残っている道理がない気がする。結局のところ、その写真がヤバいかどうかは、視覚的な情報に頼るしかないんだ。ありえない位置に人の顔があるとか、逆に人の顔がないとか。でもそういう写真って、偽造でも再現できるケースがあるじゃないか。だから、どうにも心霊写真ってやつは苦手なんだ」
そういうものか。
納得しかけたが、以前師匠がえらそうに心霊写真について語っていたこともあった気がして、釈然としないものが残った。言ったもん勝ちかよ。と、そう思ったのだ。
「まあ餅は餅屋。蛇の道は蛇だ」
「なんですかそれ」
「だから専門家に訊きに行くんだよ」
「心霊写真のですか」
そんな、供養を頼まれた写真をマニアに横流しするような悪徳坊主に訊きに行ったところで、役に立つとも思えなかった。
そんな馬鹿にしたような僕の口調を咎める様に、師匠は意味深な言葉を吐いた。
「世の中にはな。説明のつかないことってやつは、確かにあるんだ」
説明のつかないこと?
それと悪徳坊主となんの関係があるのか。
「まあ、行けば分かる」
師匠は口笛を吹きながら、開け放った車の窓から入ってくる風を気持ちよさそうに顔に受けている。
車は蛇行しながら山に登り始め、僕が助手席で車酔いしそうになったころ、ようやくそれらしい山門が見えてきた。
周囲には山の斜面にも関わらず、畑がたくさんあった。段々畑というやつか。舗装もされていない駐車スペースがあったので、そこに車を止める。ザリザリザリというタイヤが砂を噛む音が響いた。
山門の左右には板壁がついているが、それも申し訳程度で、その外側は大きな木が生い茂っている。その板壁の端のあたりに、石柱が立っていて『不許葷酒入山門』という文字が縦に彫られていた。
それを見ながら「禅宗の寺ですか」と訊くと、「違う」という答え。
「本来は禅宗の戒めだがな。割と節操なく他の宗派でも見るよ。ただ、ここのはちょっと趣旨が違うんだ」
「なんですか、それ」
師匠は石柱の文字を指さしながら「なんて読むと思う」と訊く。
「葷酒(くんしゅ)、山門に入(い)るを許さず、でしょう」
葷酒、つまりニンニクやネギなどの匂いの強い野菜や酒の類は僧侶の修行の妨げになるので、持ち込んではいけない、という戒めの言葉だ。現代なら、餃子にビールというところか。
しかし師匠は「違うなあ」とニヤニヤ笑う。
「葷酒、許されざるも山門に入る、だ」
見えない返り点の位置を指で示しながらそう言った。
入っちゃうんだ……
僕の頭の中で住職がどういう人物か、さらに補強された。山門をくぐると、杉木立の中に参道があり、射し込んで来る陽光に照らされて新緑が目に映えた。
地所は広い。参道はあまり長くなく、向こうに本堂の屋根は見えているが、その周囲にも庭園や池が広がっている。
「真宗の寺だよ」
と師匠は言った。
え、と思って訊き返す。
「真宗で、心霊写真の焚き上げ供養ですか」
それはおかしい。他の宗派ならいざ知らず、浄土真宗はそのあたり徹底しているはずだ。香典の御霊前の文字を使わせず、御仏前とすることにこだわっているくらいだ。
「お、さすがに寺のことは多少知ってるな」
と師匠は嫌らしい笑みを浮かべた。
「そうだ。霊魂不説ってやつだ。釈尊が霊魂と肉体の同異について語っていないのだから、滅びる肉体と、不滅の実体たる霊魂なんていう二元論は本来ありえないっていう考えだな。あくまでもすべては無自性(むじしょう)であり、空(くう)だ。特に臨終即往生、往生即成仏の真宗においては、当然人間が死んだ後はすぐに仏になるのだから、霊なんてものになって世に迷ってる暇はない」
参道の苔むした石畳の上を歩きながら、師匠は右手を広げて身体の前でぐるりとかざした。
「しかし、この日本では神仏習合や、古来よりの山岳信仰、祖霊崇拝などと結びつくことで、仏教の思想も様々に分かれ、変化する。宗派の中でも、分派や一寺院、あるいは僧侶一個人として霊の存在を認める場合もある。だいたい、仏教独特の説である輪廻転生ってやつを考えた時、転生する主体、つまり不滅の実体を想定せざるを得ないんだから、それを仏性と説こうが、どうしたって……」
「分かってますよ」
長くなりそうだったので、遮った。それよりも、なにか人の視線のようなものを感じて、僕は周囲を見回した
薀蓄に気分が乗って来たところでそっけなく遮られ、憮然とした師匠は「ここ、本当は真言宗の寺だよ。それも分派も分派。各山会、十八本山にもかすってない、なんとか派だ。……ぺろぺろ派」
適当なことを言って欠伸をした。
僕は、ハッとして立ち止まる。
右手側に、小山のように高くなっている場所があり、その斜面の上にこちらを伺っている人影があった。
女の子?
青いワンピースを着た、小さな女の子がそこにいた。すぐそばのヒノキの幹の後ろに隠れて、そしてまたそろそろと顔を出してくる。
「アキちゃんやあい。おくすりの時間だよう。アキちゃんやあい」
本堂を挟んで遠く反対の方向から、そんな呼び声が聞えて来た。妙に間の抜けた調子の、年配の男性の声だった。
女の子はその声に興味を示さず、じっと僕らを見ている。いや。見ているのは師匠だ。
師匠は斜面に取り付くと、木の根を伝って小山の上に登った。思わず僕も続く。登ってきた僕らを警戒するように、女の子はヒノキの後ろに隠れた。そしてまた、ちらりと顔だけを覗かせる。
何歳くらいだろう。小学校生なのは間違いなさそうだ。十歳くらいだろうか。色白で、手足など折れそうなほどほっそりしている。ストレートの髪の毛を肩口で切り揃えていて、賢そうな黒目がちの瞳が印象的だった。
「またきた」
女の子はそう言った。可愛らしい声だった。師匠は、わたしのこと? とばかりにおどけて自分を指さす。
「またきたね」
女の子は、ひそひそとした声で真横を向いて囁いた。そうしてうんうんと頷いている。なんだか変だった。その子が向いている場所には、誰もいない。
「そうだよ。また来たよ。今日はとっても大事な用があるんだ。お兄ちゃんはいる?」
師匠は猫なで声でそう訊ねながら、ヒノキの向こうからこちらに近づいてくる人影に気づいて顔を上げた。
僕もそちらを見て、驚いた。長身のガッシリした体格の男が歩いて来る。
黒谷夏雄だ。
我が小川調査事務所の小川所長の甥で、かつては師匠と組んで「オバケ」絡みの依頼を請け負っていたという男。
僕や師匠と同じ大学のはずだが、ほとんどキャンパスには姿を見せず、『M.C.D.』というハードなパンクバンドを組んでいたと思うと、ふらりと中国へ旅立ってそのまま何ヶ月も帰って来ないというような、無軌道な男だった。
なぜやつがここに。
身構える僕に目もくれず、黒谷は女の子の横で立ち止まると、師匠に向かって「早かったな」と言った。
「ああ。夏雄がいてくれて良かったよ。親父の方だと話がややこしくなる」
写真屋のマンションを出た後、電話をしていたのはこいつだったのか。
アキちゃんやあい。
アキちゃんやあい。
遠くでまだ探している声が続いている。僕は状況をそれなりに飲み込んだ。あれが親父の方か。つまり、夏雄はこの寺の悪徳住職の息子というわけだ。
「じゃあ、この子は」
恐る恐る、僕がそう訊ねると、師匠は頷いた。
「今呼ばれてる、そのアキちゃん。夏雄の妹」
ヒノキの幹のそばで二人並んでいるのを見比べ、そのあまりの違いに僕は唖然とする。
かたや見上げるような長身に服の上からでも分かるくらいの分厚い胸板。首筋から覗く龍のタトゥ。吊り上がった眉と鋭い目つきには、思わず目を逸らしてしまいそうな厳つい男。
かたや線が細く病弱そうな色の白い黒髪の少女。
しかも夏雄の方は大学五年目の二十二、三歳のはずなので、女の子が小学校の三年生か四年生くらいだとすると、少なくとも十コ以上は歳が離れている。
僕の戸惑いに、師匠が「戸籍上はな」と付け加える。
あ、やっぱり。そう思ったが、師匠は笑って「うそうそ、ホントに血が繋がってるんだって」と言い、夏雄の方は不愉快そうに睨みつけている。
僕らは心霊写真の専門家を尋ねてきたはずだ。住職が山師のインチキ親父だとすれば、専門家というのはこの黒谷のことか。
僕は以前、『M.C.D.』のライブの最中に現れた霊を、この夏雄が壁ごと殴りつけて撃退したことを思い出した。
そんな粗暴な男に、心霊写真の鑑定など出来るのか。
思ったことを口にすると、師匠は笑って「違う違う」と手を振った。
「用があるのは、この子の方にだよ」
そうして少し屈みながら身を乗り出し、アキちゃんという女の子に微笑みかけた。
「ね」
しかしアキちゃんは首を左右に振ると、警戒したように夏雄の背中の後ろに回って身を隠した。
「嫌われてんだよ。これが」
師匠は憮然として上半身を起こす。
アキちゃんは夏雄の後ろから出てこない。
「この子、完全になんとかコンプレックスだし」
師匠は意味深な視線を夏雄に投げかける。
ブラコンか。
あの見るからに恐ろしい男が、妹には優しいというところを想像しようとして、うへえ、という気持ちになる。
あれ?
「この子の方に用があるって、どういうことですか」
そう訊くと、師匠は夏雄の腰の辺りから髪の毛だけが見えているアキちゃんを指さして、言った。
「この子は、わたしや夏雄なんか及びもつかない、正真正銘の霊能力者だよ」
アキちゃんやあい。
アキちゃんやあい。
呼び声が続く。
山間の木々の中を走る、爽やかな春の風が、一瞬止まったような気がした。
◆
「じゃあ、わしはこれで。でも、加奈ちゃん、頼むよ。ほどほどでね」
住職が襖を開けて出て行こうとする。電球の明かりに、脂ぎったハゲ頭がやけに照り返している。
夏雄とアキちゃんの父、黒谷正月(しょうげつ)は名前のとおり正月が誕生日という生まれついてのおめでたい男で、親から寺を継いだものの、除霊だの焚き上げ供養だのといった胡散臭いことに商売っ気を出し、地元の檀家衆にも呆れられているそうだ。それだけでなく、麻雀やパチンコ、競輪に競艇といった賭けごとが大好きで、伝来の仏像を密かに質入れしたことがあるという逸話を持っていた。また、酒は人後に落ちないほど飲むし、女遊びも大好きというまさに生臭坊主を地で行く男であり、奥さんにはとっくに見切りをつけられ、離婚こそしてないが別居状態なのだと言う。
小川所長はその奥さんの弟で、所長からすると夏雄は甥っ子ということになる。
「いいから、早く行けよ」
夏雄に邪険に言われ、正月和尚はすごすごと出て行った。袈裟の裾が襖に挟まり、「あれ?」という声が襖越しにしたかと思うと、ぐいぐいと袈裟の端が向こう側に引っ張られて消えていった。
その滑稽な動きに、アキちゃんがクスクスと笑う。
ここは本堂ではなく、黒谷家の住居部分の一室だ。庭に面した畳敷きの広い部屋だった。旅館にあるようなテーブルが真ん中にあり、僕らはそれを囲んで座布団に腰を下ろしていた。
身体が弱いらしいアキちゃんはついさっき正月に見つかり、昼食の後に飲む薬を飲まされて顔をしかめていたが、機嫌は直ったようだった。
「だめだよ」
正月和尚の足音が去った後で、アキちゃんは笑いながら小さくそう言った。
僕はまた変な感覚に陥る。さっきヒノキの下で、「またきたね」と言って誰もいない場所を見ながらしきりに頷いていた。それと同じだ。
怪訝な表情を浮かべる僕に、師匠はこう訊いてきた。
「今、この部屋に何人いるか分かるか」
それを聞いて、思わずテーブルについている人間の顔を順番に眺める。
師匠。夏雄。アキちゃん。そして僕。
「四人ですけど」
その答えを確認してから、師匠は夏雄にも同じことを訊いた。夏雄は、興味なさそうな顔をしながらも、ボソリと言った。
「七人」
はあ? なんでそうなるんだ。
僕は部屋の中をもう一度見回したが、テーブルの回りに座っている人間の他には、誰もいなかった。
「惜しいな。八人だ」
師匠はニヤリと笑う。そして僕の方を意味深に見つめる。
霊のことか。
目に見えないそういう存在の数も含めてだと。そういうことなら、僕だって……
視覚ではなく、別の感覚を拡張させ、意識を集中する。部屋中にその感覚の根を張り巡らせ、人ならぬものの気配がわだかまっているような場所を見つける。
天井付近。なにか、いる。彷徨うものが。
しかし見つけられたのはそれだけだった。僕らと合わせて五人。しかし夏雄は七人と言い、師匠は八人と言った。これはどういうことなのか。
師匠は続ける。
「と、言いたいところだけど。わたしの答えが正しいとは限らない。さて、おひい様にお訊ねしてみましょう」
慇懃な態度で、師匠はアキちゃんの方に向き直った。そして「今、この部屋には何人いますか」と訊ねる。
アキちゃんは目をぱちぱちとさせ、自分の横にいる夏雄から順に指をさして数え始めた。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお……」
指先は、テーブルから外れ、なにもない壁際まで進んで、また少し角度を変えながら戻ってくる。
「……にじゅいち、にじゅに、にじゅさん、にじゅし……」
二十七のところで、僕を指さし、そのままその小さな指は何もない空間に向かって動き続ける。
「ああ、もういい。もういい」
師匠はアキちゃんを止めた。
え?
なにこれ。
僕は尻の座りが悪くなる感じに襲われ、そわそわしてきた。
何を数えた。何を数えたんだ。
古い木造住宅の匂いが満ちる部屋。庭に面し、窓ガラスの向こうから爽やかな光が差し込む部屋に、全く別の部屋が重なっているような気がした。白と黒。ネガとポジ。
そこに、何がいるのか。
だが、そのぞわぞわした感覚はあまりに希薄で、庭に遊んでいる小鳥たちがチチチ……と鳴くたび、僕はごく当たり前の風景の中にいる自分に気づく。
「幽霊を信じない人間は、よくこう言うな。人間が死んで幽霊になるんなら、そこらじゅう幽霊だらけになってしまうじゃないかって。……そうだよ。幽霊だらけさ、この世界は。あとは見えるか、見えないかの問題があるだけだ」
師匠は天井の隅を指さした。僕にも感じられた場所だ。
「ああいう、強いのもいれば、そことか、こっちみたいな弱いのもいる。残された思念の濃さと、それを受け取る側の精度によって幽霊と認識されるかどうかが変わってしまう。ランドルト環って知ってるだろ。視覚検査で使う、Cみたいな形の切れ目のある円だ。お前には、一番下の列にはただ小さな円か、あるいは点が並んでいるようにしか見えないかも知れない。けど見える人間には、すべて下向きや横向きのCに見えるんだ」
おい、夏雄。と師匠は僕から視線を外して呼びかける。
「見えてるのは、どれだ」
夏雄はむすっとしたまま、今師匠が示した三ヶ所をなぞるように指さしていった。天井と、奥の箪笥の端と、押入れに張ってあるカレンダーのあたり。
僕には、天井以外なにも感じられなかった。額から嫌な汗が出てくる。
「四足す三で七人か。惜しいな。箪笥のところは、重なるみたいにして、もう一人いるぞ」
師匠がそう言うと、夏雄は「あん?」と眉を片方上げ、「そうかもな」と欠伸をした。座布団の上で片膝を立て、腕をその膝の上に乗せている。客を前にしてするような態度ではなかったが、キチンと座っているところが想像できない男でもあった。
「残された死者の思念に、最初から強い弱いはある。それだけじゃなく、時間が経つにつれ、だんだんと薄れていく。経年劣化だ。よほど強い後悔だとか、恨みだとかを持っているやつでも、いずれは消えていく。逆に言うと、今でも見える古い武士の霊だとかは、マジでやばいやつだ。でもその消えていく、ってところにこそわたしや夏雄の限界がある」
師匠は部屋中を見渡すように右手を広げた。
「実際には、消えてないんだ。たぶん。ただ受け取り手の精度が低いせいで、見えなくなっているだけだ。一番下だと思っていたランドルト環の列の下に、まだ列があった。見えない人間にはただの空白にしか見えないひと列が。そういう、存在が極めて薄くなった霊が、この世には満ちている」
僕は、ふと虹が頭に浮かんだ。
あの七色の虹は、実際には七色にはっきり分かれている訳ではなく、赤から紫までの滑らかな光のグラデーションで出来ている。
国や地方によって、虹の色を七色と言うこともあれば、五色、三色、そして二色と捉えることもある。
僕はこの部屋のそれを五色と捉え、夏雄は七色、そして師匠は八色に見分けたのだ。けれどアキちゃんは、僕らが見分けた色と色の間のさらに微細な狭間を見分けている。
それも、とてつもない数にだ。
何十、何百色という極彩色に。
自分を前にして繰り広げられるなにやら小難しい話を、アキちゃんはふんふんと頷きながら聴いている。あれほど霊感の強い師匠にも見えない霊を、この子は見ているというのか。
そう言われても信じられない気持ちだった。
「例えば、わたしには薄っすらと顔だけが見える霊でも、この子には全身が、それも服の柄まで綺麗に見えている。何百年も昔の霊だってそうだ。経年劣化で、ほとんど思念も散って薄くなり、もうこの物質的な世界となんの関わりも持てなくなった霊。こちらから見ることも触れることも出来ず、あっちから影響を及ぼすこともできない。そういう存在は、もうこの世から消えてしまったのだと言ってもいいと思う。でもそういうわたしたち常人の定義する世界と、ほんの薄皮一枚のところに別の景色が広がっているらしい」
常人と来たか。あの師匠が。
だったら僕などなんだというんだ。
「この子の限界がどこにあるのか知りたくて、見えているものを聞き取って似顔絵を描いたことがあるんだ。片っ端から描いてると、いるわいるわ…… 日本史の時間で習ったような日本人の古い服装のオンパレードだ。何百年どころじゃないぞ。確実に奈良時代までは遡れる」
どこまで本当なのか分からないが、師匠は興奮したようにそう言うのだ。
「しかし、古墳時代の霊は見当たらなかった。単に当時の人口が少ないから、それと遭遇する蓋然性の問題なのかも知れないが、あるいはそのあたりがこの子の限界なのかも知れなかった。でもな」
師匠は少し声を落とした。
「似顔絵の中に、土器の時代や、石器時代の人間らしい姿もあるんだ。それがもし正しいなら、古墳時代の霊だけがすっぽりと抜け落ちていることになる。これは、非常に興味深いことだ。なぜかわかるか」
「さあ」
素直にかぶりを振った。
「黄泉(よみ)という思想のせいだよ。これは現代でいう、いわゆる『あの世』とは少し違う。そういう、肉体から離れた魂がたどり着く場所のことではないんだ。黄泉は黄泉比良坂(よもつひらさか)で葦原中国(あしはらのなかつくに)、つまり日本国と地続きで繋がっている、もう一つの世界なんだ。そこは生者の住む国の隣にある、死者の住む国であり、死とは、その移動のことを指している。つまり、黄泉という思想をメンタリティとして持っていた時代の日本人にとって、死とは肉体を持ったまま黄泉へ行くことであり、この生きるものの世界に霊だか魂だかとして迷う、なんていう発想自体がないんだ」
妻であるイザナミを黄泉へ迎えにいったイザナギが、もし葦原中国へ彼女を連れ出すことに成功していれば、それは肉体を伴った黄泉返り(よみがえり)であり、死者が生者の世界にやってくることは、すなわち生者になるということだ。だから幽霊なんていうあやふやなものはありえない。
師匠は秘密を明かすように演技掛かって言う。
「この子の目で見ても、そんな時代の人間の姿がどこにも見当たらないんだ。面白いだろう」
嬉しそうに語る師匠に、夏雄が「ケッ」と言って水を差す。
「用件をとっとと済ませろよ」
師匠には悪いが、僕もこれには同意だった。興味深い話ではあったが、今はなにしろ今夜九時までに写真のことを調べて松浦に報告しなければならない。
時計を見ると、昼の三時を回っていた。あと六時間か。
師匠は分かったよ、というジェスチャーを返しながら、アキちゃんに話しかける。
「さっきお父さんの袈裟を襖に挟んだのは、お友だちか」
「えー」
アキちゃんは隣の、なにもない空間に向かってイタズラっぽい顔で人差し指を口に立てる。なにかいるらしい。シーッ、ということか。もちろん僕には全くなにも見えない。
「ひーちゃん、だっけ。夏雄、見えるか」
問われた夏雄も、首を左右に振る。
アキちゃんには、無数に見える霊の中でもひーちゃんという仲の良い友だちがいるそうだ。もっとも本人は、人間と霊とをあまり区別していないようだったが。
そのひーちゃんは夏雄にも、師匠にも見えないので相当存在の希薄な霊のはずだが、さっきのように現実に物質的な影響を及ぼすことがあるので不思議なのだそうだ。そんなことが出来る力の強い霊なら、少なくとも師匠には見えてしかるべきなのに。
「あー、まあいいや。ひーちゃんに、今日はもうイタズラしちゃだめだって言っといて」
アキちゃんは頷いて、顔を横に向けて何ごとか囁いた。
ついさっき、あれほど師匠を嫌っているような態度を取っていたのに、今はやけに素直だ。
後から聞いたのだが、僕という知らない人間が一緒にやって来ていたので、興奮していたらしい。普段師匠だけで来た時はほとんど喋ってくれないこともあるのだそうだ。
「さて、本題だ」
師匠はそんなアキちゃんの様子を伺いながら、リュックサックから封筒を取り出した。そして中に入っていた五枚の写真をテーブルの上に並べる。
田村に押し付けられた一枚と、松浦から押し付けられた四枚。いずれも、数時間前に写真の専門家から心霊写真ではないという結論を下された写真だった。
夏雄とアキちゃんが二人して身を乗り出すように写真を眺める。
「ええと、これはですね」
視線で説明を求められているのに、何も喋ろうとしない師匠に代わって僕が口を開きかける。しかし、小突かれてそれを止められた。
「細かいことはいいよ」
師匠がそう言うと、夏雄も頷いた。「ああ。こっちもくだらねえこと聞いて、無駄に関わりたくねえ」
「そう言うと思ったよ。アキちゃん。頼みがあるんだ。あれやってくれないかな。あれ」
師匠はそう言って、右手を写真の上にかざし、撫でるような仕草を見せた。アキちゃんは師匠と写真を交互に見た後で、夏雄の顔を伺う。
「おい。あれは後から疲れが出るんだよ。簡単に言うな」
夏雄が強い口調でそう言うと、師匠は顔の前で両手を摺り合わせる。「五枚だけ。五枚だけだから。な、アキちゃん」
そう振られて、アキちゃんは慎重に頷いた。夏雄は舌打ちをした後、厳しい顔をして、「本当に大丈夫か」と妹に訊ねる。
「最近、元気だし」
黒髪の少女はにっこり笑ってそう言った。そうしてちらりと僕の方を見て、照れたような表情を浮かべる。
なにをするのだろう。
僕は興味深々で、目の前の展開を見守った。
夏雄は立ち上がり、窓の雨戸を閉め始めた。師匠は、箪笥の上にあった蝋燭を持って来て、マッチで火をつける。外の明かりを閉め出して、部屋の電気を消すと、蝋燭の光が大きくなった。
重そうな燭台に蝋燭を刺し、それをテーブルの真ん中に移動させる。襖からの微かなすきま風に火が煽られて、照らされている写真たちが瞬くように揺れる。
なんだかゾクゾクしてきた。
ごく普通の写真でも、こんな風なシチュエーションで見せられたら、なんとも言えず不気味な感じになるだろう。
「じゃあそっちの端から」
ちょうど『写真屋』に見せた時の順に、写真は並べられている。師匠の言葉にアキちゃんは頷き、少し緊張気味に右手を写真の上にかざした。飲み会の風景を写した一枚だ。蝋燭の仄かな明かりが小さな手のひらで遮られ、その下の写真は暗くて見えなくなる。
だがそれも一瞬だった。アキちゃんが手のひらを空中で撫でるようにくるくると回したかと思うと、スッと引いたのだ。
蝋燭の明かりの下に写真が再び現れる。だがその瞬間、なにか力というか、精気というか、そういう目に見えないエネルギーのようなものが、目の前で消失したような感覚がして、僕はゾクリと鳥肌が立った。
なんだ。
なんだか分からないが、今、確実になにかが起こった。
僕は写真に目を落とす。飲み会の写真に異変はない。一体なにが起こったのか。
「よく見ろ」
師匠が僕の耳に囁きかける。
「一番左の、白髪のおじさん。目を閉じてるだろう」
そう言われてみると、両目を閉じていた。ストロボに目が眩んだのだろう。
しかし次の瞬間、師匠がその写真を手に取ってなにかを振り払うように空中で数回振った。そしてもう一度、テーブルの上に置く。
やはり写真の中の飲み会の風景に異変はなかった。いや……
僕の目は一番左の人物に釘付けになる。白髪の男性は目を開けていた。さっき閉じていた姿が、まるで嘘のように。
「最初から目は開けてたよ。覚えとけ、そのくらい」
意味が分からない。手品かなにかなのか。
腑に落ちない僕に、師匠は続ける。
「この子の力だ。誰にも真似は出来ない。その一瞬を永遠に記憶するはずの写真に、後から影響を与える」
死者が、目を閉じるんだ。
師匠はそう囁く。
「今現在、死んでいる人間は写真の中で目を閉じる。そして写っているのが霊的なものであれば、ある変化を起こす」
師匠はアキちゃんに合図をする。アキちゃんは次の写真に手を伸ばす。そして先ほどと同じように手のひらを回して、スッと引いた。
海辺の家族連れの写真だった。
今度も一見なんの変化もない。両親と子どもの顔を見たが、目は開けたままだった。消えた右膝から先もそのままだ。
師匠が頷くと、アキちゃんは次の写真に手をかざした。アイスクリームを手にピースサインをしているカップルの写真だ。二人とも目を開けたままで、女性の肩に乗った誰のものとも知れない手にも異変は見られなかった。
次の、家の前で撮影された写真では、母親が目を閉じた。記憶でも確かに目は開けていたのに。家の窓の内側に薄っすらと写る男には異変がなかった。顔はなんとなく見えるが、目元がどうなっているか元々判然としていないので、閉じているか開けているかは分からなかった。
ジジジ……
蝋の匂いに混じって、埃が焼ける匂いがした。明かりが揺らめき、テーブルの上の写真に微妙な濃淡を与える。
蝋燭に気を取られた後で、写真に視線を落とすと、母親の目はいつの間にか開いていた。何ごともなかったかのように。僕は目を擦る。そうしてぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。
「錯覚だ」
思わずそう呟くと、師匠はおかしそうに頷く。
「そのとおりだ。錯覚だよ。こんな蝋燭の頼りない明かりの下でしか起こらない、幻だ」
心霊写真はなかったな。
師匠はまた囁いた。その、ある変化というのが起こっていないからか。
そして……
僕らの視線は最後の一枚に向けられる。
横浜にあった角南家の別邸の一室で、『老人』を真ん中に、その彼を慕うようにして十人の陸軍青年将校たちが周囲に座る写真。情報屋の田村が「近代日本史の闇」と称した、あってはならないはずの一枚。
その写真に、アキちゃんはゆっくりと手を伸ばしていく。
僕の心臓は嫌な音を立てている。一歩も動いていないのに、呼吸が乱れる。なにか、恐ろしいことが起きる予感に襲われて。
蝋燭の明かりが手のひらに遮られ、そしてまた写真が僕らの眼下に現れる。精気が、エネルギーが抜き取られるように消えた。その消失感に僕はゾッとする。まるで自分の血を大量に注射針で抜かれたかのようだった。
写真の中の全員が目を閉じていた。揃って、黙祷でもしているように。寒気がした。
アキちゃんが怯えたような声で呟く。
「閉じない」
そうしてもう一度写真に手をかざす。同じような動きをして、また手を下げる。
「閉じない」
また同じ動作を繰り返した。
「どうして」
声が震えている。僕は思わず写真を食い入るようにして見つめる。
なんだ。いったいなにが。
ハッとした。
全員が目を閉じていると思ったが、それは間違いだった。ただ一人だけ、目を開けたままの人物がいたのだ。
一番左の隅に座る男。その襟には軍隊における階級を表す、五本の縞と三つの星。
正岡哲夫大尉。優秀な軍人で、仲間のうちでも最も昇進が早く、彼ら青年将校たちの間の実質的リーダーだった男。
そして、その写真が撮られる、少なくとも二ヶ月以上前に死んでいた男。
得体の知れない感覚に、体中がざわめく。どういうことなんだ。
戦時中、大逆事件を起こしたかどで、秘密裏に処刑されたという若き将校たち。そして角南家の当主として君臨し、政界や財界に影響を及ぼし続けた後、今から十数年前に死んだ『老人』。
それらがすべて目を閉じているのに、なぜ正岡大尉が目を開けたままなのか。死んでいるはずのこの男が写ってしまっているからこそ起きているこの騒動だというのに。
僕は混乱し、師匠の顔を伺う。
さすがに難しい表情を浮かべていたが、ゆっくりと口を開くと、こう言った。
「こいつは、生きている人間じゃないな」
正岡大尉を指さす。
いや、ちょっと待て。死んでいないからこそ、目を開けたままなんじゃないか。それも一人だけ。
僕の困惑を他所に、師匠は続ける。
「こいつは、死者でも生者でもない。作り物だ。だから、目を閉じない。そうだな?」
確認するように問われ、アキちゃんは首を傾げた後、小さく頷いた。
僕は驚いた。作り物? それはどういう意味なんだ。写真の偽造のことかと思ったが、写真の専門家があれだけ明確に否定したのだ。それはないように思えた。
ハッとする。人形? 精巧な人形が置かれていたのか。いや、どう見ても普通の生きている人間にしか見えない。そんな人形を作る理由も思い浮かばない。まさか、この記念写真のためだけに? だったらなおさら座る位置がおかしい。不慮の事故で、天皇襲撃計画の決行を前に命を落としたリーダーを偲んで、こうして人形を作り一緒に写真を撮ったというのなら、こんな隅の方に追いやっていいわけがない。『老人』の隣にいてしかるべきだ。
「Nengraphy…… 念写だな」
僕は考えがまとまらないうちに、師匠の口から出たその言葉に二の句が継げなかった。
念写だって? あの、ポラロイドカメラを使って目の前にない東京タワーとかを写す手品のことか。いや、師匠の口ぶりは本当に超能力、あるいは超常現象としての念写を肯定している感じだ。
「そんなことが本当に出来るんですか」
師匠は頷いて、アキちゃんを見た。すると隣の夏雄が強い口調で「駄目だ」と言った。そのやりとりを傍で見ていて、僕は裏の意味を悟る。唖然としてしまった。
「アキちゃんは、出来るんですね」
「今日はもう駄目だ」
僕に、夏雄の冷たく殺気立った言葉が突きつけられる。
その瞬間、蝋燭の火が消えた。
「あ」
室内は暗くなる。まだ蝋燭の長さは十分にあったはずなのに。僕は驚いて、一体なにごとが起こったのかと身構える。
闇の中に「ダメだよ」という小さな声が聞えた。ゾクリと、鳥肌が立った。
ついでカチカチ、という音とともに電球の明かりがつく。
師匠が電球の紐から手を離し、すぐさまテーブルの上の写真に取り付く。姿のない何者かにそれを奪われることを防ごうとするかのようだった。
写真は五枚とも無事だ。
師匠は溜め息をついて、アキちゃんの方を非難するように見た。「ひーちゃんか。今のは」
ひーちゃんという目に見えない何者かのイタズラだというのか。今の蝋燭が消えたのは。
アキちゃんは頷きながら、疲れた表情を浮かべる。
僕は、さっき蝋燭の明かりの中で見た幻…… 写真の中の人物が目を閉じるという錯覚のことを思い浮かべた。あの時、なにかのエネルギーが目の前で消失する感じを受けたが、あれはひょっとすると、アキちゃん自身の精神力や体力といったものだったのではないだろうか。
テーブルの上の五枚の写真は、なにごともなかったかのように元の姿で並んでいる。目を閉じていた人物たちは全員目を開いている。『老人』や青年将校たちもだ。
「もう終わりにしてくれ」
夏雄がそう言いながら窓を開け、雨戸を元に戻し始めた。外の光が畳敷きの室内に射し込んで来る。
「自分の部屋に戻ってろ」
アキちゃんは夏雄の言葉に素直に頷き、さして名残惜しそうでもなく立ち上がると、「ばいばい」と言って僕をちらりと見た後、襖の向こうに去って行った。
『わたしや夏雄なんか及びもつかない、正真正銘の霊能力者だよ』
師匠の言葉が脳裏に蘇る。
僕らにはもう見えない、消えて行く霊を、まるでそこにいるかのように見ることが出来る、底知れない霊感。死者の見開かれた目を、指でそっと閉じさせるように、写真の中の人物にまでそんな影響を及ぼす力。そして念写。
僕は信じられない思いで、その子が去った襖とその先の廊下の方を見つめる。
「もう帰れよ」
雨戸を戻し終わった夏雄がテーブルにそばに立ち、ズボンのポケットに手を入れながらそう言い放った。
「ああ」
師匠は生返事をしながら、青年将校たちの写真に目を落としている。僕も同じように覗き込む。
「念写って本当ですか」
「さあな。可能性の問題だ。人形よりはありえるだろう」
その判断基準が良く分からない。
目を閉じていない正岡大尉だけが、念写によって写しこまれた幻だというのか。実際には彼はその部屋にいなかったと。
そう言えば、今回の五枚の写真では死者が目を閉じるという異常現象は起こったが、写真の中の霊的なものに起こるという変化は見られなかったようだ。つまり『写真屋』と同じく心霊写真は一枚もない、という結論が出たわけだが……
「幽霊が写っていた場合、どうなるんですか」
気になって訊いてみたが、師匠は意地悪そうな顔をしただけで答えなかった。
「どっちにしろ、幽霊でもなく、生きている人間でもない彼は、結局つくりものだったってことだ」
師匠は結論付けるようにそう言ったが、僕は別の可能性を考えていた。
正岡大尉がその時生きて写真に写っていて、その後も現在まで生き続けている可能性だ。だから写真の中の彼の目は閉じなかった。
だがその場合、なぜ正岡大尉が死を偽り、あるいは偽られ、そしてその後も姿をくらましたままだったのか、という謎は残る。
正岡大尉が生きていたとして、今一体何歳になるのだろうかと思って、計算をしてみた。すると、八十過ぎという結果が出た。
生きていてもおかしくない年齢だ。
そこまで考えたところで、僕はアキちゃんが僕らに見せた、写真の中の人物が目を閉じるという共通幻想の意味を、他愛もなく信じていることに気づいて、おかしさが込み上げて来た。
その理由も分かる。師匠がそう信じているからだ。そこが僕のスタート地点であり、他の道などありはしなかった。少なくとも、 そのころの僕には。
「長尾郁子、高橋貞子、そして三田光一…… 東京帝国大学の助教授だった福来友吉が、明治から昭和の始めにかけて見出した霊能者たちは、透視能力だけでなく、念写という能力までも実験によって示そうとした。そしてその失敗が、念写を、幽霊写真よりも信憑性においてさらに一段下に置く風潮の元になり、その大衆心理は現代まで連綿と受け継がれている。どちらも『心霊写真』として括られるものなのに。福来博士の念写実験の真贋についてはあえて語らないけど、余計なことをしてくれたものだ」
こんな、面白いものを……
皮肉さを口元に表して師匠は呟く。
「でもこの正岡大尉の部分が念写によるものだとしても、誰がそれを撮ったっていうんですか」
写真には写っていないカメラマンが、その念写を行った人物のはずだった。
「さあな。家族か、他に仲間がいたのか。この写真では分からないな。でも福来博士の定義では、念者は乾板に直接作用するので写真機は不要とされていた。わたしの研究した限りでも、同意見だ。乾板写真じゃなく、フィルム写真だろうが原理は同じはずだ。シャッターを押した人間にしか、念写を行うことが出来ないというのは早計だな」
「では誰が念写を?」
「この中の誰かだろうな。姿の見えないカメラマンを含めてだが。これが念写だとするならば、欠けた仲間を、あるべき姿として、同じ空間に蘇らせたんだ。世に大事を成そうというヒロイズムと高揚感、そこから来る連帯感。そして妄想というか、妄念というか、なにかそういうものがあるような気がする」
そう言われて、僕はもう一度写真の中の男たちの顔を眺めた。そして左隅に遠慮がちに座る正岡大尉の姿を。
もしこれが想定外の念写だというのなら、現像されたものを見て、『老人』や青年将校たちは驚いただろう。死んだはずの正岡大尉が、一緒に写っていることに。そのことは、恐怖よりもむしろ勇気を鼓舞するものだったはずだ。死してなお、想いを同じくする仲間の姿に、より一層、彼らの団結心は強固なものになったのではないだろうか。
「あ、しまった。こっち見てもらうの忘れてた」
師匠は封筒に残っていた『老人』と青年将校たちの写真のコピーの方を見て、自分のひたいを叩いた。『老人』の顔が見えない失敗作だ。
『写真屋』のところでもそうだったが、師匠は妙にそのコピーの方にもこだわっている。きっちりしているのか、なんなのか。なにもおかしいところはないはずなのに。
「夏雄、いまヒマか」
師匠は写真を片付けながら訊いた。
「ヒマじゃねえよ」
「うそつけ。寝癖立ってるぞ」
「おまえもな」
「え、まじで」
確かに少し立っていた。師匠は後ろ髪を触っている。
なんだかこの二人の会話を聞いていると、理由もなくムカムカしてくる自分がいる。
「…………」
師匠はそれから少しのあいだ黙り、そして「またな」と言ってリュックサックを背負いながら立ち上がった。
「ああ」
夏雄は玄関まで僕らを見送った。山門か、せめて参道まで見送るという発想がなさそうな男だった。
師匠が靴を履いて外に出る時も、欠伸をしながら頭を掻いていたが、僕がそれに続こうとした瞬間、首根っこを凄い力で引っつかまれた。
「おい」
「なんですか」
とっさに睨みつけながら言い返したが、内心はドキドキしていた。
「深入りするな」
ほとんど無表情でそう言われた。その言葉の意味をどう取るべきか一瞬分からなかった。
師匠に、それも女性としての加奈子さんに近づくな、という脅しなのか。それともこの写真にまつわる一件にこれ以上関わるな、という警告なのか。
「余計なお世話です」
それがどちらにせよ、腹を決めたつもりでそう言い返した。夏雄は「ガキが」と吐き捨てて、僕の腹を殴った。
昨日、石田組のチンピラみたいな歯抜け茶髪に殴られた場所のすぐ近くだった。一瞬息が止まる。ほんの撫でる程度に力の抜けた一発だったが、その拳は一体なにで出来ているのか、というくらいの異様な硬さで、まるで腹に石を落とされたようだった。
なにすんだ。
そう怒鳴ろうと、肺をむりやりこじ開けて息を吸い込んだ時、玄関の外から「なにしてんだよ」という師匠の声が聞えた。
「もう四時になるぞ。早く帰ろう」
「……はい」
僕は夏雄を精一杯睨みつけながら返事をし、靴のつま先で地面を叩いた。
「気をつけて帰れ」
夏雄は僕に対する興味を失ったように、ありていな言葉を吐いて家の中へと踵を返した。
「妹さんによろしく」
僕もさっきの腹パンチなんてなにも効いていない、というていで手を振った。そして外に出て、師匠の後を追う。
なんだあの野郎。暴力馬鹿が。ヤクザと変わらないじゃないか。
そんな悪態を心の中でつきながら、師匠の横に並んだ。
「結局よく分かりませんでしたね」
『写真屋』の天野は心霊写真や偽造写真ではないと言い、アキちゃんの見せた幻からは焦点になっている正岡大尉が、死者でも生者でもない作り物だ、という答えが導き出された。師匠は念写だと言うが、精巧な人形なのかも知れないし、あるいは正岡大尉の死という情報が誤りで、その時も、そして今現在も生きている可能性もあった。
「そうかな。念写でいいじゃないか」
いいじゃないか、という口ぶりに、変に他人事のようなニュアンスを感じて、おや? と思った。
問題はそこじゃない。
そう言っているような感じ。
僕の疑念に気づいたように、師匠は続けた。
「松浦がこの写真のコピーをわたしに預けた時点で、もう答えは出てるんだ」
「どういうことですか」
「『老人』の、角南大悟の顔が潰れてしまっていて見えないとはいえ、現存する角南家の別邸で撮影されたと分かる写真に、消された大逆事件の首謀者たちが集まっているのが写っているんだ。それだけで、とんでもないスキャンダルだ。おいそれと興信所の所員なんかに渡していいはずはない。なのに松浦はそうした。脅しつきだったが、そんなものクソくらえだ。ようするにこの写真自体にもう価値はなかったんだよ。松浦は正岡大尉の死亡時期の問題だけで、一点突破できると踏んでたんだ。偽造写真だと。心霊写真だなんていう無駄な説明の必要はない。そんなものは蛇足を通り越して薮蛇もいいところだ。ただ偽造写真だというだけで、この写真の持つ毒性は消えることになるんだから」
だったらどうして松浦は、心霊写真かどうかの鑑定を師匠に依頼したのだ。ふに落ちない。
師匠はしたり顔をして言った。
「そこだよ。あいつにとって重要なのは、こんな無価値な古い写真じゃない。消えた大逆事件も。そこにいてはいけない、死んだはずの将校も。『老人』の、角南家のスキャンダルも、なにもかも関係ないんだ。ただあいつは……」
そこまで言いかけたところで、ふと口をつぐんだ。
「まて。おかしいぞ」
師匠は緊張した表情になった。
「ただの無価値な写真…… 関係ない…… 大逆事件なんか…… 死んだはずの将校も…… 関係が……」
ボソボソと呟いた後で、ハッとした顔をして師匠はいきなり振り返ると走り出した。
参道の石畳を、寺の方に向かって駆け抜ける。
「ちょっと待って下さい」
慌てて後を追ったが、もう姿が見えない。とっさのことにあっけにとられ、初動が遅れたことと、それ以上に師匠の足が速すぎた。
敷地内にあった黒谷家の住居にたどり着いた時、すでに師匠は玄関に靴を脱ぎ散らかして上がり込んでいた。僕も靴を脱いで、古い木の香りのする廊下を恐る恐る進んでいると、どこかから声が聞えて来た。
『どうして目が閉じないと、おかしいんだ』
師匠の声だ。どこからだろう。勝手の分からない、やたらと広い他人の家をしばらくうろうろして、ようやくたどり着いた時、すでに師匠の用件は終わっていた。
アキちゃんの部屋の前に、本人と夏雄と師匠とが立っていて、師匠は厳しい顔をしたまま、近づいて来る僕の方をちらりと見た。
「帰るぞ」
そう言って、黒谷家の兄妹に「ありがとう」と頭を下げ、玄関のある方に歩き出した。
アキちゃんは怯えたような面持ちでそれを見送っている。夏雄は仏頂面だ。その目つきにはどこか殺気立ったようなものも感じられた。
「え、え」
僕はその慌しさに戸惑いながらも、師匠の後について歩き出す。そうして戻って来たばかりの黒谷家を再び後にした。
夏雄はもう見送りには来なかった。
遠ざかっていく寺を振り返りもせず、杉木立の中の参道を再び通って山門のところまで戻る。
許されざるも山門に入った葷酒は、やはり許されざるも山門を出るのだろうか。古びた門をくぐりながら、ふと意味のない言葉が脳裏に浮かんだ。
門の外に止めてあった車に乗り込むと、僕は師匠に今のやりとりのことを訊ねる。しかし、むっつりと押し黙って口をへの字に曲げた横顔を見せられた。
どうして目が閉じないと、おかしいのか。
師匠は確かにアキちゃんに訊いていた。わざわざ家に取って返してまで。
「やっぱりあの正岡大尉にはなにかおかしいところがあるんですか」
「少し黙ってろ」
師匠はなにか難しい問題を押し付けられたように厳しい顔をして、そっけなくそう言った。僕はそれ以上言葉を継げなかった。
師匠に心霊写真の鑑定を依頼した松浦の真意とやらの話も途中のままだ。僕はもやもやしたまま、見るからに不機嫌になってしまった師匠の横で、居心地悪く助手席のシートに沈み込んでいた。
◆
市内に戻って来ると、もう夕方の五時を過ぎていた。陽も翳ってきている。
「二手に分かれよう」
師匠はそう言って、街なかで僕を車から下ろした。
「わたしはちょっと調べることがあるから、先に家に帰ってる。お前は図書館で資料を借りて来てくれ。あと、スーパーに寄ってなにか買って来い。飯作ってやるから。おにぎりとパンしか食ってないから、腹が減ってかなわん」
「事務所じゃなくて、家の方ですね」
資料って、なにを借りて来たらいいのかと訊くと、角南家のことが分かる郷土史の類を借りられるだけ借りて来い、と言われた。それから、もしあれば『消えた大逆事件』のことが出ている本も。
頷いたが、僕は気がかりだった。もうタイムリミットまであまり時間がない。これ以上なにを調べる気なのかが分からない。ひょっとして、師匠はお荷物の僕を捨てて、一人でなにかをしようとしているのではないか。そのことを心配したのだ。
「一人で松浦と会ったりしないで下さいよ」
いくら師匠でも女性なのだ。ヤクザと一人で対面するなんて、危なすぎる。
「分かってる、分かってる」
師匠はうるさそうに手を振ると、僕を捨て置いてさっさと車を出発させた。雑踏に残された僕は、仕方がないので図書館まで歩いて行き、郷土史のコーナーに陣取って角南家の名前が出てくる本を片っ端から借りて行った。消えた大逆事件に関する書籍は、マイナー過ぎたのか、あるいは胡散臭い本という扱いのためなのか分からないが、とにかく図書館には置いていないようだった。
図書館を出ると、近くのスーパーに寄る。師匠は魚が好きなので、魚を適当に見繕って、あとビールを数本買い込んだ。
荷物が増えたので、少し気だるい思いをしながら師匠の家の方へえっちらおっちら一人で歩いて向かっていると、急に誰かに肩 を叩かれた。
まだ市街地だったが、一本裏の道を通っていたので、あまり人影もないような通りだった。
振り向くと、茶髪で派手な服装をした男がにっこりと笑って立っている。その口に、前歯が一本欠けているのが見えた。
「よう」
気さくにそう声を掛けられた瞬間、うなじの毛が逆立つような危機感が背骨に沿って脳天まで走り抜けた。
ズシリ。
男の顔が僕の顔のそばまで近づき、その下では右の拳が僕の腹にめり込んでいた。一瞬、吐瀉物が喉を逆流する、焼けるような感触があった。
身を守ろうと、図書館で借りた袋とスーパーのビニール袋を路上に落として両手で男を押しのけるような動作を取る。しかし茶髪の男はするりと僕の手をかわすと、さらに近づいて腹の同じ場所を殴った。それも寸分たがわずだ。今日夏雄に殴られたばかりの場所だった。いや、少し外れている。昨日殴られた場所だ。この、同じ茶髪の男に。
僕はたまらず、身を折って吐いた。鼻に沁みるような痛さがある。茶髪は、抵抗力を失った僕を引きずるようにして、近くにあった雑居ビルの一階のドアを開けて、中に入った。
空き店舗なのか、片付けられたなにもない殺風景な部屋に、ダンボール箱がいくつか転がっている。その中で唯一、二段に積まれているダンボール箱に、僕は思い切り叩きつけられた。背中に、硬い物が衝突する。缶詰かなにかが箱の中にギッシリと入っているらしい。
二段重ねのダンボールは崩れ、僕はその上に倒れ込む。起き上がろうとした時、蹴りが来た。
胸の辺りに当たる。体重を乗せた横蹴りだったので、また吹き飛ばされる。仰向けに倒れた僕の上に、茶髪が跨るようにして仁王立ちする。
「写真、出せよ」
見下ろしながら、ヘラヘラと笑う。
返答をする間もなく、顔を斜めから蹴られる。いや、それはほとんど踏みつけに近かった。頬に走る、皮膚と骨がずれるような痛み。
次の蹴りが来る前に、顔を庇おうと両手を持って行きかけて、しかし咄嗟の判断で茶髪の足を払った。
ぐらりとバランスを崩したところへ、頭突きをするように強引に立ち上がる。全身で敵を押し込み、その反動を使ってすぐに身体を離す。一瞬、間が出来たので状況を確認すると、空き部屋の中には自分と茶髪の男の二人しかいないことはすぐに分かる。次いで武器になりそうなものを探すが、本当にダンボール箱くらいしか見当たらなかった。
こいつは、喧嘩のプロだ。
二人きりで対峙して初めて、皮膚感覚でそれを悟る。
「写真て、なんの、ことだ」
息を整えながらようやくそう言ったが、茶髪は歯の欠けた間抜け面でニヤケたまま馬鹿にしたように首を上下に振った。
唯一の出入り口は、入ってきたドアだけ。それは茶髪の背後にあった。逃げられない。
そう悟った僕は、思い切り体当たりをしようと突進を敢行する。しかし、そのスピードが乗り切る前に間合いを詰められ、鼻先にパンチを喰らった。それも、一発の後、二発、三発と立て続けに。
ジャブだ。左肩を前に出しながら、腰を入れずに左の拳を突き出して来る。早い。とても避けられない。
この男は、ボクサー崩れなのか。
痛みに思わず目をつぶるやいなや、腹にまた鉛のような重いパンチを叩き込まれた。今度は右の拳だった。
「ぶえ」
無様な声が出て、吐瀉物がまた口からこぼれる。
茶髪は、身を屈めた僕の髪の毛を掴み、まるで吊り下げるように腕を持ち上げながら顔を近づけて言った。
「変態ども御用達の写真屋の次は、写真供養の寺か。分かりやすいなあ、お前ら。あのデブに訊いたぜ。お前らがコピーじゃなく、オリジナルの方を持ってるってことはな」
それを聞いて愕然とする。
すべてばれてる。なぜだ。まさか、尾行されていたと言うのか。この男に?
「やっぱり田村の野郎とつるんでやがったのか。いや、違うな。俺たちが見失っている田村が、わざわざお前らに写真を預けるわけがない。そんな危険を冒すわけが…… どうせ押し付けられたんだろう。逃げている間に。事務所に押しかけて来たって時だ」
茶髪はもう一発腹にパンチを入れて来た。息が出来なくなる。下げかけた頭を、無理やり髪の毛を掴まれて起こされる。
「おいおい、なんだっつの。その目はよお。探偵の事務所で俺を睨んでた威勢の良さはどこ行った」
そう言った瞬間、男のニヤついていた顔の表情が、筋肉ごと作り変えられたように変貌し、元から細い目がこちらの心中を見透かすかのごとく、冷笑をたたえていた。
「人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか」
茶髪は唇をあまり動かさず、静かにそう言った。松浦に感じたのと同質の寒気が、僕の身体を襲った。
チャッ、という音がして、空いていた左手にいつの間にかナイフが握られていた。
「今写真を持っているのは、あの女の方か。惜しかったな。まあいい、お前を囮にして呼び出すとしよう」
脇腹に、刃物の切っ先が突きつけられる。少し。ほんの少し、先端が皮膚を突く程度に。ナイフを奪おうと動いた瞬間に、それは僕の内臓に深く突き刺さる。そのことがリアルに想像できる。
頭の奥がジーンとして、とても空気が苦い。
「来い」
茶髪は僕を無理やり立たせる。その立ち上がる動きの間、僕の脇腹に当てられたナイフと、その先端の当たっている皮膚との位置関係に全く変化がなく、滑らかに水平移動していたことに気づいた瞬間、抵抗する気力が失しなわれていった。
この男はナイフの扱いに長けている。街なかでチンケなゴロを巻くチンピラなんかとは一線を画す、プロなのだ。
男が背後から僕の脇腹にナイフを突きつけたまま、空き店舗のドアから出て行く。指示されるままに雑居ビルの奥へ進むと、エレベーターがあった。そのそばに緑色の公衆電話が据えられている。
「あの女のところに掛けろ」
そう口にしたタイミングでナイフの先端が初めて前に進み、脇腹にブツリと痛みが走る。ほとんど思考停止状態で、僕は受話器のフックを上げた。やけに重い。硬貨は男が入れた。
プッシュ式の番号を押しながら、わずかに残った理性が、別の誰かのところへ掛けるべきではないかと囁く。
誰だ。誰のところへ。
しかし、そのわずかな僕の躊躇いを見透かしたように、茶髪が背後から手を伸ばして来て、残りの番号を押してしまった。
師匠の家の電話番号だ。なぜこの男が知っている?
頭が痺れる。『写真屋』が教えたのか。それとも小川調査事務所を家捜ししていた時に、どこかで番号を見たのか。きっと後者だろう。その程度のことは抜け目なくやっていそうな気がした。
耳の奥で、呼び出し音が鳴る。もはや止めようがない。
電話が繋がる。一瞬の間の後、僕は茶髪に指示された通りの言葉を一方的に喋った。
田村の隠れ家を見つけたこと。その場所。可及的速やかに来て欲しいということ。
その場所とは、もちろんこのビルの一階の最初のドアの向こうだ。僕の声は普通ではなかったはずだった。しかしその震えも、田村を見つけてしまったのならば不自然ではない。
茶髪がフックを叩いた。なにか他のことを言う前に電話を切られてしまった。
「ご苦労」
そうしてまた僕は空き店舗へ戻された。茶髪はポケットから細いロープを取り出して、部屋の隅の壁から出ていたパイプのようなものに僕を後ろ手にして縛り付けた。ロープは細いが、金属製の綱が織り込んであってとても千切れそうにはなかった。
茶髪はようやく僕から離れ、一度ドアの外に出た後、本の入った袋とスーパーの袋を提げて戻って来た。僕が路上に落としたものだ。そのまましておくと目立つので回収して来たらしい。
袋を地面に置き、ダンボール箱の上に腰掛けて煙草を吸い始めた。その横顔にはニヤニヤとした頬の弛緩など跡形もなかった。横目で僕を油断なく監視しながら、時おり天井に向けて煙を吐いていた。
「僕たちは、松浦さんの依頼を受けて動いていたんだ」
自分でも驚くような弱々しい声だった。
「知ってるさ。心霊写真だって?」
ククク、と茶髪は冷たく笑った。僕はそこに、ヤクザという徹底した上下関係の世界にあるはずの畏敬の欠片もないことに気づく。
チンピラ上がりから抜け出せず、ただわめき散らすだけの頭の足りない男……
松浦や他の若い衆と一緒にいた時のその印象が、ただ必要に応じて演じていただけの役割であったということが今はっきりと分かった。男は、兄貴分の松浦など内心では認めていない。己の力、欲望をひたすら隠し、静かに牙を研いでいる。そんなイメージがひしひしと伝わって来るのだった。
こいつは、一人で動いている。
独断専行で、つまり松浦に抜け駆けをして写真を手に入れ、一体なにをしようと言うのか。誰にも気づかれずに研ぎ上がった牙を、使う時が来たとでも言うのだろうか。
ふと気づいたように茶髪は僕に近寄り、ガムテープを口に貼りつけた。ポケットに入れていた板切れのようなものに少量を巻きつけてあるのが見えた。驚くような用意周到さだ。
一本だけ欠けた前歯。離れていく時、そこに目が吸い寄せられた。
わざと抜いているのかも知れない。
ふとそう思った時、僕はただの人間を恐ろしいと思う感覚を味わった。とても嫌なものだった。
ふいに茶髪は煙草を踏みつけ、腰を上げる。ドアの上部はすりガラスになっていて、その向こうに人影らしきものが現れている。茶髪の左手にナイフが握られ、慎重に歩を進めていく。僕は動くことも、声を上げることもできない。
茶髪が、ドアの前に立った瞬間だった。
凄い音が耳に飛び込んで来た。
すりガラスが砕け散り、ドアの外から突き出された長い腕が、茶髪の顔面を捉えていた。後ろに吹き飛ぼうかという勢いが、ガクンという不自然な動きに止められる。腕はそのままさらに伸ばされ、茶髪の胸倉を掴んでいた。そして間髪入れず、力任せにドアの方へ茶髪は身体ごと引っ張られる。
ガシャン、という音がして残ったすりガラスが割れる。ドアに引き寄せられて上半身を叩きつけられた茶髪は、獣のようなうめき声を上げた。
ドアが蹴破られ、茶髪は今度こそ吹き飛ばされる。
耳が片方折れた兎が、身を屈めるようにしてドアをくぐって入って来た。正しくは、首から上に兎の頭の着ぐるみを被っている男だった。兎はにこやかに笑っている。しかし不気味に目は見開かれ、記号的で空疎な笑いだった。
兎は拘束されている僕の方に一瞥をくれると、起き上がろうとした茶髪に駆け寄って右手を突き出す。茶髪は不十分な体勢のままそれをかわし、後方にステップして距離を取る。怒鳴ったり、脅し文句を吐いたり、という無駄なことはしなかった。
ただ、「誰だ」とだけ短く言って、拳を構えた。その直前、瞬時に、茶髪は兎と、部屋の隅に転がったナイフを見比べている。拾う隙はないと判断したのか。
兎は無造作に近づいていく。耳を除いてもかなり背が高い。それほどタッパのない茶髪との体格差は相当あった。自然、茶髪は兎を見上げる形になる。
茶髪の足が動いた。リーチの不利を消すために懐へ飛び込もうとしたのだ。しかし、次の瞬間、その出足を兎の右足が止めていた。
ローキックだ。
ドシンという肉が叩かれる鈍い音がして、茶髪の身体が膝の辺りから前のめりに沈んだ。ついで、左のストレートが茶髪の右頬を捉える。その手が髪の毛を掴み、兎の額の部分が茶髪の鼻柱に叩きつけられる。振り下ろすような頭突きだった。着ぐるみの柔らかい材質のせいか、ゴスンという控えめな音がした。
そして離れ際、兎の右のパンチがフック気味にボディへと吸い込まれる。
茶髪は苦悶の表情を浮かべて身体をくの字に折った。そのままうずくまり、動かなくなった。
兎はそれを見下ろした後、僕に近づいて後ろ手にパイプと結んであったロープを解いた。「逃げるぞ」と、うずくまる茶髪をそのままにして、兎は部屋から出ようとする。僕は口に貼られたガムテープを自分で剥がしながら、図書館で借りた本の袋とスーパーの袋を手に取って後を追う。
「ドアの前に立ってたのが僕だったらどうするつもりだったんですか」
「…………」
兎は答えず、雑居ビルから脱出した。
茶髪に強制されて師匠の家に電話を掛けた時、夏雄がなぜ出たのか。さっぱり分からなかった。夏雄は寺に残り、僕らは市内へ帰ってきたばかりなのだ。しかし困惑しながらも、ただ与えられた言葉を吐くしかなかった。そしてそのことが、僕の置かれた状況が危機的であるということを伝えるすべとなった。
電話に出たのが夏雄だと分かっていながら、なお相手を師匠として語り続けたからだ。それが得体の知れない雑居ビルへの呼び出しであり、この件にヤクザが絡んでいることと合わせて考えると、あの暴力馬鹿ならずとも状況はある程度読めたはずだった。
まさか兎がやって来るとは思わなかったが。
脇道の角を曲がると、道端に黒い車が止まっていた。夏雄のスープラだ。
「あの、」
なにか言おうとして、僕は突然眩暈に襲われた。力が抜けて吐き気が胃の奥から湧いてくる。道の端に身を折って、少し吐く。体中が痛い。殴られたり蹴られたりした場所が熱を持って存在を主張している。
座り込んでしまいたい衝動に駈られていると、兎が僕を小脇に抱えるようにして力ずくでスープラまで連れて行き、後部座席に放り込んだ。
煙草の匂いが染み付いているシートに顔から突っ込み、身体を起こす元気もないまま呻く。
兎が運転席に乗り込み、その着ぐるみを脱いだ。
夏雄が前髪から汗を滴らせながら、ダッシュボードのボックスティッシュをこちらに投げて来た。僕はそれで吐瀉物のついた口元を拭く。血がついているのに気づいて、顔を触ると、頬の皮膚が少し裂けていた。踏みつけられた時の傷だ。鼻血も出ている。
夏雄は行き先も告げずにスープラを発車させた。
「加奈子さんは」
もう一枚ティッシュを抜きながらそう訊く。
「家にはいなかった」
寺で分かれた後にすぐ僕らを追って来て、そのまま師匠の家に行ったのか。そこに僕が電話を掛けたわけだ。
「加奈子さんは!」
僕は大きな声を出した。蹴られた胸に響いて痛みが走る。
「うるせえな。置手紙があったんだよ。人に会って来るって」
松浦の顔が浮かんだ。
やっぱり会いに行ったのか。一人でかっこつけやがって。何をされるか分かったものじゃないのに!
焦りが脳の回線を焼く。
「誰に会いにいったんです」
「落ち着け、ボケ。自分が帰るまでになにかあったら西署に電話しろって書いてあった」
「なにかあったら警察に電話しろって、やばい状態に決まってるでしょう!」
「こっちになにかあったら、だ。しかも110番じゃねえよ。二課のデスクだ。刑事に会ってんだよ」
刑事に?
知り合いがいるのは知っていたが、なぜ今?
「知らん」
車はしばらく走ってから止まった。古ぼけた看板が掛かった小さな診療所の前だった。
僕は乗った時と同じように、力づくで後部座席から引っ張り出され、診療所の中へ連れ込まれる。
ギシギシきしむ板張りの薄暗い廊下を通って、診察室らしい一室に入ると、剥げ上がってでっぷりと太った初老の男が白衣を着て椅子に腰掛けていた。
「よう、夏っちゃん。右手を怪我した時以来か」
夏雄は黙って僕を差し出した。
その医者は松崎と言った。小川調査事務所の面々ご用達の『あまりうるさいことを言わない』医者らしい。
喧嘩の怪我くらいではなにも訊かずに治療してくれるとのことだった。尻に銃創がある怪我人がやって来ても、と聞かされたが、聞き間違いだっただろうか。
「はあん。だいぶやられたな」
上着を脱がされて、アザになっている箇所を強く抑えられ、呻いた。看護婦はいない。松崎医師一人でやっているらしい。
夏雄はそのまま僕を医者に押し付け、帰ろうとした。
「待てよ」
立ち上がろうとしたが、医者に肩を押さえられる。ただの肥満体かと思ったが、凄い力だ。
「とにかく怪我を見てもらえ。浦井のことは心配するな。会えたら連絡してやる」
夏雄はそう言い置いてさっさと行ってしまった。
僕は湿布やら包帯やらを巻かれ、あまり清潔には思えないベッドに寝かされた。「吐き気さえ治まったらもう大丈夫だよ」と言われたが、まだふらつきがあり、帰る足もない僕はその診療所で夏雄の連絡を待つしかなかった。
人に言えない怪我を負った連中を相手に商売をしているこの医者なら、もしかして腹を刺された田村も、あの応急処置の後でやって来た可能性もあると思い、訊いてみたが「知らない」というそっけない答えだった。かりに来ていたとしても、そんなことを喋るはずもなかった。
診療所に、他の客がやって来る気配はなかった。。医者はなにをするということもなく、ずっとテレビを見ている。
横になったまま僕はうとうとしていた。
はるか頭上のあたりに、五枚の写真が浮かんでは消え、浮かんでは消え……
ゆらめく蝋燭の明かり。
閉じない。
どうして。
誰の声だったか。
ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお……
正岡大尉。
老人。
とっとと出るぞ、こんな水虫屋敷。
あいつは、見えてるよ。
よもつひらさか。あしはらのなかつくに。
人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか。
師匠。
加奈子さん。
どんな写真なんだ。けしからん。
実に。
見てみたい。
「おい」
「はい」
返事をしてから目を覚ました。
ああ。寝てしまっていたらしい。診療所の窓の外は暗く、もう日が落ちてしまっている。
師匠が僕の横たわるベッドのそばの丸椅子に腰掛けている。
「大丈夫か」
本物の師匠だ。ついさっき別れたばかりなのに、ずっと会えなかったような気がした。
「はい」
身体を起こす。部屋の柱時計を見ると、夜の八時になろうとしていた。
「決着をつけに行くぞ」
パンを買いに行くぞ、とでもいうようなあっさりしたその言葉に、僕はどんな怪我だろうが立ち上がれるような気がした。
「はい」
そう答えると、師匠はニッ、と笑った。
◆
師匠のボロ軽四で小川調査事務所に到着した僕らは松浦を待っていた。師匠が八時半にここで会う約束を電話で取り付けたという。
ホワイトボードを確認すると、小川所長が帰ってくる時間が今日の夜九時となっている。しかし九時といえば飛行機の到着の時間のはずなので、実際はまだ一時間程度は猶予がある。
師匠は小川所長が戻って来る前にこの件のカタをつけるつもりなのだ。無断でヤクザの依頼を引き受けた手前、そうせざるを得ないのだろう。
カタをつけるといっても、依頼部分については半ば出来レースだ。預かった写真のうち、四枚は心霊写真じゃありません。もう一枚はたぶん念写によるものです。そう説明したところで、結局は偽造写真として扱われるだけだ。田村がまだ見つかっていないとしても、躍起になって探し出すモチベーションにはならない。
松浦の真意は別のところにある、というようなことを師匠は言っていたが、それもどうということはないだろう。
問題なのは、田村が持って逃げているはずの写真の現物を師匠が持っていたということだ。そしてそれを松浦に伝えたであろう茶髪を、本職のヤクザを、夏雄がボコボコにしてしまったということ。これがまずかった。兎の着ぐるみを被っていたが、僕を助けに来たのだ。こちらサイドの人間に決まっている。
単独行動を取っていた茶髪が、このことを松浦に、あるいは石田組に報告していないのではないか、という甘い希望はこの際持たなかった。
タダで済むとは思えない。
「黒谷さんは」
師匠に訊くと、「帰した」という答え。
「あいつがいると話がこじれる」
この件は暴力抜きで決着できると判断したのだという。話がこじれるのは想像できるが、なんだそれは、と僕は思った。
寺から帰る時に、「ヒマか」と訊いたのは師匠の方だ。関わりたくないのか、夏雄はついて来ることを拒否したのに、結局師匠を心配してやって来ている。そして身体を張って僕を助けてくれたのに、邪魔になったから帰れ、というのは……
僕は嬉しかったのだ。
あの兎が現れた時。
あの、僕がボコボコにされていた時に。痛ッ。
怪我のことを思い出した途端、傷口が痛み出した。切った頬などより、打ち身のところがキツイ。特に腹は茶髪、夏雄、茶髪と同じ場所ばかり殴られているから。なんだかムカムカして来た。夏雄の野郎。
しかしまた、これから石田組とどうケリをつけるのか心配になり、落ち込む。
生きた心地がしない状態で事務所の椅子に座っていたが、心の準備が整わないうちに事務所のドアが開いた。
そして四人の男たちが入って来る。
松浦がいる。そして最初の時にいた年嵩の男と、ゴリラのような顔の男。あと初めて見る体格の良い男がいた。背は夏雄と同じくらい高く、黒いスーツを窮屈そうに着ている。ひしゃげたような団子鼻で、人相も相当に凶悪だった。耳が潰れていて、いわゆるギョーザ耳になっている。かつては柔道の重量級全国大会出場者、というところか。
その男を見て、僕は茶髪が兎にやられた一件が完全に石田組にも伝わっていることを悟った。しかし彼らが警戒しているその兎は今ここにはいない。最悪の状況だ。
「その化け物に用はない。帰せ」
師匠が自分のデスクから立ち上がり、はっきりそう言い放った。
化け物と言われても、団子鼻の男は顔色一つ変えない。師匠の物言いを咎める喚き声も聞えてこなかった。その役割をしていた茶髪がいないからだった。
「それはそちらの態度次第だ」
松浦が静かに口を開いた。
「写真は渡す。本来、これは田村のものだ。お前たちに渡す義理はないが、この騒動を収めるためにそうしよう」
師匠は懐から写真を取り出し、その場で腕を伸ばして差し出した。年嵩の男がスッと近づき、写真を受け取る。
手元にやって来た写真を松浦がちらりと一瞥する。
「いいだろう」
室内の緊張感が少し和らいだ気がした。
「だが、田村の居場所はどこだ」
「知らん。写真はやつがお前らに腹を刺されて事務所に転がり込んで来た時に、押し付けられただけだ。その後は会っていない。一度電話があったが、居場所を聞く前に切られた」
こっちだって迷惑なんだ!
師匠はそう言ったが、写真を最初に松浦に渡さなかった理由にはなっていない。
「なぜ渡さなかった」
やはりそこを訊かれた。
『ヤクザが嫌いだろう』
田村にはそう言われたのだったか。しかし師匠は、松浦に向かって平然として言った。
「この写真には秘密がある」
「なに?」
松浦が眉根を寄せた。
「あんたにだけ話したい」
師匠は真っ向から松浦を見ている。
「依頼のこともある」
そう続けた師匠に、ようやく松浦は頷いた。
「下で待て」
男たちはその指示を受けて、整然とドアから去って行く。あらかじめ心得ていたようだった。化け物と呼ばれた男も、全く表情を変えず、ドアの向こうへ消えた。
「そちらは」
松浦は僕を見た。
嫌だ。絶対にここにいる。
テコでも動かない気だったが、師匠が「怪我人だ。いいだろう?」と言うと、ふ、と空気が抜けるような笑いを浮かべ、松浦は何も言わずソファに腰掛けた。
「あの歯の抜けた茶髪の男はどうなった?」
師匠がデスクから椅子をソファの方へ回して、そう訊いた。
「あなた方には関係がない」
松浦はそのことについて話す気はない、というようにそっけなく言った。僕はその様子から、茶髪の独善的行動が松浦の逆鱗に触れたのではないかと想像した。恐らく当たっているだろう。だとするならば、今ここにいないあの男が、夏雄にやられた以上の重症を、仲間からの制裁によって負っている可能性さえあった。
「関係ないのだったら、そいつの怪我についても不問だな」
師匠は夏雄の暴行について踏み込んだが、松浦はそれについてもそっけなかった。
「関係がないと言ったはずです」
そうして胸の内ポケットから黒革の財布を取り出して、数枚の一万円札を僕に突きつけた。
一瞬なんのことか分からなかったが、自分の頬に当てられた包帯を手で触り、そう言うことかと気づく。
「やめろ」
師匠は強い口調で言った。
言われなくても受け取る気などなかった。なにしろ僕はあの診療所でお金を払っていない。どこにツケられたのか分からないが。
「嫌われたものだ」
松浦は一人ごちて財布を仕舞う。
「では、聞かせてもらいましょう」ギシリ、とソファがきしんだ。
「まず、依頼の方からだ」
師匠はそう言ってから机の上に置いてあった自分のリュックサックを持って来て、中から封筒を取り出した。それから僕に目配せをして、来客用のテーブルを持って来させる。
ソファと机の間に置かれたテーブルに、五枚の写真が並べられた。いや、うち一枚はその複写だ。
あえて師匠は、現物の方ではなく、複写の方で話を進めた。
「そちらの依頼は、この横浜にある角南家の別邸で撮られた1938年か39年の写真に写っている、死んだはずの正岡大尉の正体を調べろ、というものだった」
「そうです」
「心霊写真なのか、それとも他のなにかなのか……」
師匠はゆっくりと写真のコピーを指の腹で撫でた。
「ここに写っているこの正岡大尉に良く似た人物は、今現在も死んでいない」
松浦は、ほう、という顔をした。
「生きていないものは、死なない。このテーブルが死なないように」
コツコツと中指の第一関節で叩く。
「わたしの結論としては、念写だ。こいつは、ここにいる仲間たちの思念によって写し込まれた、命なき存在なんだ」
ね・ん・しゃ。
松浦は馬鹿にするでもなく、なんの先入観もないようにその言葉を吟味しているように見えた。
「だが、ただの精巧な人形がここに置かれていただけなのかも知れない。あるいは、ただの心霊写真なのかも知れない」
師匠はただの、を強調して言った。
「でもそれも大した問題じゃない。なぜならこれは偽造写真だからだ。真実がどうあれ、最初からそう決められている。角南一族にダメージを与える致死的な毒にはなりえない」
そうだろう?
師匠は松浦の目を真正面から見る。松浦はなにも答えない。
「あんたの真意は別にあった。本当の依頼はこっちさ!」
師匠はテーブルを叩いた。いや、その上に並べられている他の四枚の写真をだ。
「海辺の家族連れ。男の子の両膝から先がないのは、ただのシャッター速度の問題だ」
写真はピン、と弾かれテーブルの外に落とされた。
「アイスを食べているカップル。この肩の手はよくあるイタズラだ」
ピン、と弾かれる。
「飲み会の写真。煙草の煙がストロボに照らされ、偶然顔のように見えただけだ」
ピン。
「母親と男の子の写真」
師匠はそう言って写真を手に取った。
「この男の子は、あんただ」
驚いて目を疑った。なぜそうなるんだ?
松浦も驚いているかと思ったが、その表情は逆に冷え切ったように緊張感を湛えている。
「そして母親は、立光会の先代の愛人だった女。あんたを産み、中学校卒業まで私生児として育てていた女だ」
師匠の頬にも緊張があり、こわばっているように見えた。テーブルを真ん中にして向かい合い、お互いしばし押し黙った。
口を開いたのは松浦だった。
「なぜ分かった」
その言葉には、脅しというよりも純粋な興味が混ざっているようだった。
「わたしは、霊を見ることが出来る。それは人の思念、怨念、執念を五感ではないなにか別の知覚で捉えることが出来るからだ。心霊写真にはほとんどそれがない。確かに撮影されるまではそういう思念が影響している。だけどネガからプリントされるのは薬品による化学反応だ。写真として手元に来た時点で、残念ながらわたしに感知できるような霊ではなくなっている。ただの視覚的なものに過ぎない」
心霊写真は苦手だ。
寺に向かう車の中で、僕にしてくれたような説明を師匠は繰り返した。松浦はじっと聞いている。
「しかしこの母子の写真は違った。見た瞬間からビンビン来たよ。念だ。念。強烈な思念、怨念、執念。わたしにも感じることが出来るやつだ。それがこびり付いて離れない。あんたのだよ。その写真を他の写真に混ぜて持って来た、あんたの念だ」
松浦はなにも言わない。
「この、窓のところに薄っすらと写っている男。あんたは、この男のことを知りたかったんだ。家の前で写真を撮る母子。カメラを構えているのは、近所の人か? そして窓辺で薄ら笑いを浮かべてそれを見ている男…… 目元なんかはよく見えないのに、その口元は分かる。薄ら笑い。それがその男の本質であるかのように、だ。あんたはこの男がこの時、家の中にいたのか、それとも霊体として写っているのか、それを知りたかったんだ」
違うか?
刃物を前にしてなお喉を突き出すような、緊張した声だった。
松浦はまだなにも言わない。その顔から表情が完全に消えている。写真の中の男の子は、はにかんだようにほんの少し笑みを見せていた。目の前の男にその面影はない。
「それにこだわる理由も分かる。この男が、あんたの父親だからだ。だけどくだんの立光会の先代じゃない。顔つきがまるで違う。あんたは立光会の先代の愛人の息子だが、先代の実の子ではなかった。そうだろう。あんたの実の父は、薄ら笑いを浮かべているこの男だ。言ってやるよ。こいつは霊じゃない。ここにいたんだ。あんたら母子と一緒のフレームに入ろうとせず、ただ離れた場所から薄ら笑いを浮かべている。そういう男だ」
師匠は自棄を起こしたように捲くし立てると、さあ矢でも鉄砲でも持って来い、とばかりに開き直って、腕組みをしながら椅子の背もたれにふんぞり返った。生きた心地がしない状態で僕は手に汗を握っていた。
松浦はまだなにも口にせず、写真をじっと見ている。男の上半身が薄っすらと見えている窓のあたりを。
「そうか……」
ようやく開いた口からは、そんな静かな言葉だけがこぼれた。そうしてそっと写真を仕舞う。
師匠はばつが悪そうに、頭を掻いている。
立光会の先代の顔つきなんて、昨日の今日まで知らなかったはずだ。西署の刑事に会いに行ったのはそのためか。ヤクザ嫌いの師匠が、ヤクザの世界の事情を調べようとすれば、警察しかないのだろう。
松浦はなんの詮索もせず、この件を終わりにした。
『あんたの後ろにあるのは虚無だ』
僕はこの男の持つ虚ろな冷たさが、師匠の言う虚無が、どこから来るのか、おぼろげながら分かった気がした。
松浦が腰を浮かしかけた時、師匠が声を掛けた。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「もうなにも話すことはない」
そう言えば、最初に師匠は青年将校たちの写真を指して、この写真には秘密がある、と言っていた。思わせぶりだったが、そのことなのだろうか。
しかし、僕にももう、そっちの写真にはあまり価値がないとしか思えなかった。
「聞け。聞いてくれ。重要な話だ」
師匠が身を乗り出す。
「頼む」
その懇願に、松浦は一瞬逡巡したように見えたが、やがてソファーに座りなおした。
「写真を」
師匠にそう請われて、松浦は一度仕舞った写真を取り出そうとする。しかし師匠は「そっちじゃない。『老人』の方の写真だ」と言った。
そうして、テーブルの上に写真と、その複写が並んだ。複写の方は中央部分が黒く潰れていて、『老人』の顔が見えない。
「これがなにか」
師匠は考えを整理するようにしばし視線を落とし、慎重に口を開いた。
「わたしの知り合いに、ある霊能者がいてな」
そうして名前や詳細を出さずに、アキちゃんのことを話し始めた。僕らの目の前で起きた、写真の人物の目が閉じるという、あの集団催眠なのか集団幻覚なのか分からない不思議な力のことも。
そうして、写真の原本の方を使って、そのシーンを再現する。写真の上に手をかざし、手のひらをくるくると回しているのだが、蝋燭の明かりもないこんな明るい場所ではやけに滑稽に見えた。
松浦の口元に冷笑が浮かんだのを見て、「笑わず聞いてくれ」と師匠は言う。
「『閉じない』『どうして』そう言ったんだ、その霊能者は。確かに正岡大尉の目は閉じていなかった。だからわたしは、それが生きている人間ではないからではないかと思ったんだ。でもよくよく考えるとおかしいんだ。他の写真でも目を閉じた人間と、閉じていない人間がいる。飲み会の写真なら、一人のおっさんは目を閉じていたけど、他は閉じていない。それ自体にはなにもおかしいことはないはずだ。『老人』たちの写真なら、一人は目を開いていて、他は閉じている。今はもう死んでいる人もいるし、生きている人もいる。それだけのことだ。目を閉じない、なんて言って怯える必要はない。確かに古い写真だが、いつごろのものだとか、大逆事件に関わる写真だなんていう背景は一切話していない。ましてこの後彼らは処刑されたなんて話は。なのになぜ、一人でも目を閉じない人間がいると、おかしいんだ? 現に青年将校たちの年齢を考えると、今生きていたら八十歳くらいだ。一人くらい目を開けていてもなにもおかしくない」
師匠はそこで言葉を切り、
『閉じない』『どうして』
と繰り返した。
なにが言いたいのか分からず、僕は困惑していた。やっと松浦たちヤクザとの縁も切れ、この写真にまつわるやっかいごとが終わりかけていたのに、なにを師匠は言おうとしてるのだろう。
スッ、と師匠の指が写真に向かう。そしてそれは『老人』の顔の上で止まった。
「閉じなかったのは、こいつだ」
ゾクリとした。
なぜか分からないけれど、この二日間で、最大の寒気が前触れもなくふいにやって来た。心臓が、今初めて動き出したかのようにバクバクと音を立て始める。
「正岡にばかり目をやっていて、わたしも気づかなかった。だけどその霊能者だけは見ていた。写真の上から手を離した時、この『老人』だけは、一度閉じた目をもう一度薄っすらと開いたんだ」
寺から帰りかけたところで、いきなり引き返してアキちゃんのところへ走ったのは、そのためか。
『閉じない』『どうして』という、アキちゃんのもらした言葉の齟齬に気づき、その真意の確認のためだった。そして、アキちゃんが見たものとは……
「半眼だ。言われなくては分からないくらい、薄っすらと。それが何度手順を繰り返しても、その度に閉じた目をわずかに開けたそうだ。まるで薄目を開けて、写真の中からこちらを覗いているみたいに……」
そんな現象は初めてだったから、怖くなったそうだ。
師匠はそう言って右の拳を縦にして口元に当て、睨みつけるように写真を見下ろす。
「死んだ人間は目を閉じる。生きている人間は目を開けたまま。では、一度閉じて、薄目を開けるやつは?」
ぶつぶつと言いながら、師匠はリュックサックを手元に引き寄せ、中身を探る。
「そっちのコピー。複写してる時に、途中で田村に写真を奪われたから、真ん中が黒く潰れてるってやつ」
テーブルの方を見ないで師匠は続ける。
「本当に、そうなのかな」
「なんのことです。なにが言いたい」
松浦が怪訝な顔で問い掛ける。
「どうして写真を渡さなかったのかと訊いたな。田村から無理やり押し付けられた写真なのに、あんたたちがやって来た時にどうして渡さなかったのか、と。正直言うと、昨日、一度目は迷ってた。小川所長に迷惑が掛かるなら、渡してしまおうかとも思った。けど、なにか第六感みたいなのが働いてな。黙ってたんだ。そして次の日、二度目にあんたらが来た時には、もう渡すつもりはなかった。一度目と、二度目の違いがどうして生まれたのか」
ごそごそとやっていた手の動きが止まる。
ゆっくりとリュックサックから半透明なクリアファイルが出てくる。中になにか入っている。
「初日、つまり昨日の夜、コピーをな。取ってみたんだ。持ち歩くにも、あんたたちとやりとりするにも、あった方が便利だと思って。そしたら、こうだ」
クリアファイルから、写真のコピーが出て来た。だがそれを見た瞬間、僕の身体には鳥肌が立った。
コピー用紙の中央が真っ黒に潰れている。『老人』の顔を中心に。まるで同じだった。松浦が持って来たものと。
「まさかそれが」
松浦の目が、クリアファイルに注がれる。クリアファイルの中にはまだ用紙が入っていた。
「なんだこれは、と思ってな。いろんな所でコピーをとったよ。コンビニを回ったり、文具屋を回ったり。そのすべてがこれだ」
テーブルの上に、コピー用紙がばら撒かれる。
目を疑った。すべてだ。すべてまったく同様に、『老人』の顔を中心にして真っ黒く潰れている。いや、よく見るとその黒い部分は、すべて微妙に形が違う。生物に、個体ごとの差異があるように。
「複写を途中で止められたから起きた焼きミスなんかじゃないんだ。これは。まともじゃない。もっと恐ろしいものだ」
松浦も食い入るようにコピー用紙を次々手に取っている。オリジナルからコピーされた写真のすべてから、『老人』の顔が消されている。
「消された大逆事件とやらでお縄になった青年将校たちが、どうして北一輝の名前を、つまり『老人』角南大悟の名前を割らなかったか、考えたことがあるか」
松浦がコピーから目を離さず、答えなかったので師匠は続ける。
「どういう思想を植えつけられたのか知らないが、首謀者の名を明かさなかったのには二つの理由が考えられる。一つは、首謀者への畏敬から、罪が及ぶのを防ぐため。そしてもう一つが、彼らの計画が、そして思想が、まだ生きる望みがあったためだ。首謀者が無事で、かつそのまま軍に知られなければ、自分たちの失敗の後でもまだ思想は達成できる。その捨石になるためだ」
だがこいつは。
と師匠は、原本の方の『老人』の顔を見つめる。
「こいつは、そんな大逆事件などなにもなかったかのように、戦後は商売を広げ、角南家を大きくする。政財界にも手を伸ばし、フィクサーとも呼ばれる存在になる。思想はどこにいった? 青年将校たちを決起させたイデオロギーは? 論理は? そんなものが本当にあったのか? 青年将校を駆り立てた言葉は、もう誰も知らない。こいつは…………」
化け物だ。
師匠は吐き捨てるように言った。
あの団子鼻のヤクザに言った言葉と同じだったが、その重さは全く違っていた。
「わたしが念写だと思ったのにはそういうわけもあった。こいつにとっては、ただあるべき姿に修正しただけだ。自分の描いた地図の通りにだ。岩川大尉が死んでいれば岩川が。もう一人のなんとかって大尉が死んでいれば、そいつがここに現れていただろう。亡霊のように。そう思えばなぜかしっくり来るんだ」
写真の中の『老人』は、当時まだ五十代だと言うのに、眉間と頬には深い皺が刻まれ、すべてを知り尽くした賢人のような威厳が備わっていた。だがその威厳は、尊大さを併せ持ち、わずかに上げた顎が目に映るすべてを見下しているかのように見えた。
「腹を刺された田村。その揉み合いになった時に怪我をしたというあんたのところの若い衆。歯抜けの茶髪野郎にボコボコにされたこいつ。お返しにボコボコにされた茶髪野郎…… この写真に関わった人間が昨日今日の二日間でかなりの怪我を負っている。他にもいるんじゃないか」
そう振られ、松浦はハッと気づいたような顔をして「弁護士が」と言いかけた。そのまま口をつぐむ。
「なんだ、弁護士先生もどうにかなったのか。面白いな。深く関わった人間で無事なのはわたしとあんたくらいじゃないか。こいつはよっぽど強い守護霊を持ってないと対抗できないらしい」
ははは、と師匠は笑ったが、松浦はその冗談を笑いもせず射るようにスッと目を細めた。
師匠はばつが悪そうに視線を逸らすと、テーブルの上に散乱したコピー用紙を片付け始める。
「こいつは燃やすよ。あんたも、そのオリジナルをどうするつもりか知らないが、手放した方がいい。今は握りつぶすつもりだと言っても、あんたらの稼業は明日はどっちに向くか分からないんだろう。だからと言ってずっと持っているのはまずい」
実にまずい。
師匠はそう繰り返したが、忠告は聞かれる様子はなかった。松浦は写真を懐に仕舞い、今度こそ腰を浮かせる。
「無視かよ。幽霊やら怨霊やらという生易しいものじゃないぞ。こいつは」
「では、なんですか」
師匠は言葉に詰まった。
「分からない。死んでいるのに、死んでいない。死してなお、その思想が生きている、とかそういう抽象的な話じゃない。なんらかの存在として、この世にある。そんな気がする。半眼に薄っすら開かれた目。今も死の淵の向こうから、この世を覗いている」
御霊(ごりょう)……
ふと、その言葉が頭に浮かび、僕はぼそりと口にする。師匠と松浦がこちらに顔を向けたので、「いや、その」と手を振った。
師匠の言う怨霊という言葉から、歴史上の凄まじい祟り神であった、菅原道真や崇徳上皇、そして平将門などのことがふいに連想されたのだ。世に怨念を撒き散らした彼らはまた、諡号をされ、神として祀り上げられることで鎮められた。だがその鎮魂は、恐怖に蓋をしたものであり、彼らの怨念がいつまた世に溢れ出すか分からないという畏怖の上に成り立っている。
「御霊か」
師匠はそう呟いて考え込んだ。
松浦は、ふ、と笑い、スーツのズボンに出来たわずかな皺を手で払った。
「お嬢さん、お話が出来て楽しかった。約束の報酬は、この事務所の正規の料金分でも受け取ってくれないのでしょうね」
「わたしが欲しいのは、ヤクザのいない日常だ。もう二度と顔を見せないでくれ」
最後まで師匠は口調を改めなかった。
松浦は顔色を変えることもなく、ただ「さようなら」と言って僕らに背を向けた。ドアノブに手を触れかけた時、じっと見ていた師匠が声を上げる。
「なあ、一つだけ教えてくれ」
「……なんです」
松浦は上半身を捻って顔を半分こちらに向けた。
「本家立光会の先代の落し種だって噂。わざわざ広めてるのは、あんたか?」
挑発的なその言葉に、松浦はなにも答えなかった。ただじっと師匠の方を見た後で、全く別のことを言った。
「私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか」
また、どこかで。
独り言のようにそう口にしてドアを開けた。その後ろ姿が消えて行くのを、僕と師匠は静かに見送った。
◆
松浦が去った後、夜九時半になる前に僕らは小川調査事務所を出た。なんだか疲れ果てていて、今所長が帰って来てしまったら逐一何があったか説明するような元気はなかったのだ。
何ごともなかったかのように事務所を片付け、慌しく雑居ビルを出ると一階の喫茶店ボストンの入り口に、カクテルグラスの絵のプレートが掛けられているのが見えた。
髭のマスターが脱サラして始めたこの店は、昼間は喫茶店で、夜はバーになる。そのガラス戸から漏れる淡い光を見ていると、なんだか飲みたい気分になったので、そっと師匠にジェスチャーを送る。
さすがにこのボストンでは小川所長に見つかる可能性があったので、別の店に行くつもりだったが、師匠は背負ったリュックサックの肩口の捩れを直しながら「用があるから」とそっけなく言った。
「僕も行きます」
嫌な予感がした。この人はまだなにかする気なのか。そんな予感が。
いや、正直に言う。黒谷に、夏雄に会わせたくなかった。少なくとも二人きりでは。今はだめだ。
「勝手にしろ」
歩き出した師匠を追う。打撲を受けた場所がきしみ、痛みが走る。だから今はだめだ。
深入りするな、と言われた。だから今はだめだ。
なのに助けられた。だから今はだめだ。
無力感が込み上げて来た。
だから今は。
「結構歩くぞ」
振り返って言う師匠に、「大丈夫です」と痛みを隠す。
歩きながら師匠は松浦のことを少し話した。西署の刑事に聞いたことを。
「あいつは若いころ、日ごろからいがみ合ってた親戚筋の若い衆と本格的にやりあったことがあった。攫って監禁してぶちのめしたらしいんだが、最終的に殺しはしなかったんだ。腕を一本もぎとっただけだった。だけど、そのもぎとるまでに腕の付け根を縛ってな。血を止めて腐らせたんだ。その腕に蛆の卵を埋めたらしい。孵化しなかったら、殺すって宣言して。その相手の男は自分の腕の肉を喰い破って蛆の幼虫が顔を出すのをひたすら願っていた。まるで薬物中毒者が見るような悪夢を」
「男はどうなったんです」
「助けられた時にはおかしくなっていたらしい。残ったもう一本も、もぎ取ってくれと喚いていたそうだ」
蛆が出てくるからだ。そう思ったに違いない。
松浦の蛇のような冷たい顔を思い出して、背中におぞ気が走る。そんな人間に。そんな人間と分かっていながら、師匠は怯みながらも決して引かなかった。
どうすればそんな師匠のようになれるのか。
僕はそのことを考えながら歩いた。繁華街を離れ、住宅街へと進む。路上に明かりは少ない。時々ぽつりと立っている街灯が、リュックサックを背負った背中を浮かび上がらせる。
やがて古びたアパートの前で止まる。見覚えのないアパートだ。
師匠は一階の右端の部屋のドアをノックした。返答はない。しかし格子の嵌った小さな窓からは明かりが漏れている。
少し強く叩く。時間が過ぎる。
ドアがほんの少し開く。師匠はすぐに半歩分離れる。
「誰だ」
見たことのない男の顔が半分だけ覗いた。警戒した表情。師匠はにこりと笑って言った。
「松浦に電話してくれ。探偵が、田村と話をしたがっていると」
男はギョッとした顔をした。そこへ間髪入れず畳み込む。
「小川調査事務所の浦井だ。松浦と田村から聞いているんじゃないか。心配するな。石田組の人間じゃないよ。もちろん他の組でもない。こんなかわいいヤクザがいるか?」
師匠の軽口に、男は慌てたように「待て、少し待て」と言ってドアを閉めた。
混乱している様子だった。
それは僕も同じだ。一体どういうことだ。ここに田村がいるのか。逃げているはずの田村が。この男は誰だ? 松浦との関係は? そもそもなぜ師匠が田村の居場所を知っているんだ。
唖然としていると、やがてドアが開く。さっきより大きくだ。
「入れ。二人だけだな」
男が警戒した表情のままそう言った。
「ああ」
師匠は顎をしゃくって僕を促す。そうして後に続いてアパートの部屋の中に入った。
玄関には靴が一足だけ転がっていたが、師匠はそれを踏み越えて土足のまま部屋に上がる。僕もわけのわからないままそれに続いた。
台所の奥にあった居間は狭く、三人の男が壁際にいた。
ドアを開けた男と、もう一人見知らぬ男。そして田村。田村以外は靴を履いたままだった。
「よう。元気そうだな」
「ああ」
田村は後ろ手に縛られてしゃがんでいた。しかし不敵な表情をして口唇の端を上げてみせる。
「写真は渡したぞ」
「ああ、聞いた」
「悪かったな」
「仕方ねえよ」
田村はくくく、と笑った。
「俺もヤクザは嫌いだが、こうなっちまえば背に腹は代えられない」
「あんたらもヤクザか」
師匠は壁際に立つ二人の男に訊いた。どちらも油断なくこちらの一挙手一投足を見つめている。
「……」
男たちは曖昧に首を振るだけで答えなかった。
「松浦の子飼か。田村のことは石田組のやつらにも秘密ってことだな。心配しないでくれ。誰にも喋らないよ。あの男の怖さは知っている」
師匠は一方的にそう言って、田村に向き直る。
「このヤサが見つかったのはいつだ。今日の午前中、わたしに電話して来た時にはもうこいつらがいたんだな。電話は松浦の指示か」
「よけいなことは訊くな」
田村が口を開こうとすると男たちが鋭く制した。師匠は男たちを睨みつけてから、別のことを訊ねる。
「あの写真はどこで手に入れた」
今度は止められる前に、すぐ答えた。
「取材源は明かせない」
「なるほどな。守秘義務か。でもそれが通用していたら、こんなのん気な面会なんてできてないだろ。今ごろどこか誰も知らない場所で腕に蛆虫の卵でもうえつけられてるはずじゃないか」
田村の顔から血の気が引いたのが分かった。
「やめろ」
壁際から男たちが一歩前に出る。僕も師匠の前に立ち塞がるように足を踏み出した。まだ体中が痛いが、そんなことは一瞬頭から飛んでいた。
「ああもう、やめやめ。暑苦しい。おまえ、松浦に口を割ったな。でもそれで正解だ。投げちまえ、こんなヤバいネタ。多分おまえが思ってる以上にこの件は危険だ。化け物と蛇の喰い合いに巻き込まれるようなもんだ。おっと、分かった分かった。もう帰るよ」
詰め寄ろうとする男たちに師匠は両手を上げる。
「なあ、最後に一つだけ訊かせてくれ」
「なんだ」
田村は精一杯の虚勢を張って、後ろ手のまま挑発的に返事をする。
「おまえの死んだ兄貴なら、このネタ最後まで追ったのか」
驚いた顔をした後、田村はゆっくりと考え、そして素直にこう答えた。
「いや。手を引いただろう」
師匠は満足そうに頷いた。
「小川さんもだ。絶対に途中でケツまくってるよ。で、二人で肩を落として夜のボストンに行くんだ。ヤケ酒だよ。ツケで」
ははは。
田村が笑った。
「そうだ。たぶんそうだ」
師匠も笑っている。
「解放されたら、今度飲みに行こうぜ」
「ああ」
田村は頷いた後、少し胸を張って「またな、バイトのお嬢さん」と言った。
そうして僕と師匠はその部屋を後にする。無事に出られるような気がしなかったが、思いのほか二人の男は立ち塞がろうとしなかった。代わりに師匠を呼び止めて、「あの人から伝言だ」と言った。仏頂面をしたままで。
「丸山警部によろしく、と。それからもう一つ、『素人やらせとくには惜しい。だが、こっちの世界に来るのはもっと惜しい。お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』」
師匠はその言葉に「ケッ」と顔をしかめて、踵を返した。
「待って下さい」
僕は後を追った。
なんの変哲もないアパートが遠ざかり、住宅街を元来たとおり歩いて行く。民家の屋根が暗いシルエットを不揃いに並べているその向こうに、繁華街の明かりが薄っすらと見える。
僕は身体に響くのを我慢して足を速め、師匠の隣に並んだ。
「田村はどうしてあそこにいたんですか。松浦たちはずっと探してたんじゃないんですか」
師匠は足を止めずにボソリと答える。
「田村のとっておきの隠れ家だったんだろ。すぐにばれたみたいだけど。多分、石田組はこのことを知らないよ。松浦だけだ。知っていたのは」
「なんで松浦は知ってて知らないふりしてたんですか」
「決まってるだろ。田村を見つけてしまったら、小川調査事務所に来る口実がなくなるからだ」
「は? どういうことですか」
「だから、松浦はわたしにあの母親と子どもの写真を見せるためだけにすべてを動かしてたんだよ」
唖然とした。信じられない。僕は空気が抜けたように笑った。
「仲間へのエクスキューズ。わたしへのエクスキューズ。そして恐らく自分自身へのエクスキューズ。馬鹿だなあ。馬鹿。ああいう勘違いした完璧主義者はいつか大ポカをやらかすぞ」
「ちょっと待って下さい。今日の昼間に松浦たちが帰った後に掛かってきた田村からの電話も、松浦の指示だったんですか」
「多分な。石田組のやつらから逃げてた田村が、うちの事務所でわたしに写真を押し付けたとこまでは仕込みじゃないだろう。で、その日の夜だかに隠れ家が松浦の個人的な網に掛かってしまって、とっつかまったんだ。わけも分からないまま写真を持っているわたしは、田村から連絡がない限りあそこを動けない。だから、松浦はあの電話を掛けさせた。怯えてる。もうしばらくは連絡もないだろう。わたしにそう思わせて、依頼の方に取り掛からせたんだ」
「でもなんで、そんなことが分かったんです」
「なんでだと思う?」
分かるわけがない。さっぱり分からない。
「松浦が、わたしに『老人』の顔が潰れているとは言え、角南家の別邸だと分かる写真のコピーを預けた時点で、写真自体が偽造で無価値なものだと断定できているって話はしたろ。もちろん実際はそれが心霊写真だろうがなんだろうが、だ。でもそれだと、まだ論理に瑕疵がある」
「瑕疵、ですか」
こんな無茶苦茶な話に、そんなもの一つや二つあったところで、という気がしたが「それはなんです」と訊ねた。
「写真が一枚とは限らないってことだ」
「え?」
驚いた。全く考えてなかった。
「あの一枚だけなら、死んでいるはずの正岡大尉が写っているという事実で偽造を主張できるけど、もし他に正岡大尉が写っていない写真が現存していれば話が変わってくる。そしてそれを田村が持っていたとしたら、写真の持つ毒性は復活するんだ。次の衆議院議員選挙に出るっていう、角南家の秘蔵っ子の命取りになりかねないスキャンダルの元がな。角南家を強請るにしても強請らないにしても、写真自体は握りつぶす腹の石田組が、そんな危険な写真をわたしなんかに預けて出歩かせると思うか。どこからどういう噂が立つか分からない。わたしが持っているコピーのオリジナルが偽造だとしても、偽造ではない、少なくともそう断定できない別の証拠写真がどこかにあるんなら、そんな噂ごときでも危険性が跳ね上がるんだよ」
それに、わたしならこうする。
と言って,師匠は何かを破るジェスチャーをする。僕はハッと気づいた。というか、なぜ今まで気づかなかったんだ。
正岡大尉がいる左端を破れば、偽造問題の根拠がなくなるじゃないか。一部が破損していたとしても、後のフィクサー、角南大悟が消えた大逆事件に関わっていたという揺るがし難い証拠写真になってしまう。
「松浦が、そんなことに気づかない男とは思えない。そんなやつがわたしにコピーを預けたんだ。田村はすでに手の中に落ちてると考えていい。あの時点でもうスキャンダル写真の問題は解決していたんだよ。後はすべて松浦の手のひらの上だ。わたしも含めてな」
忌々しそうに師匠は吐き捨てる。
そうか。田村を捕らえて、写真の入手先のことを吐かせた上で、他の写真の存在などの問題をクリアできると判断したのなら、残る不確定要素は師匠の持つコピーと、そしてオリジナル写真だけだ。
「今日の午前中に松浦がうちの事務所にやって来る前に、すでに田村は吐かされてるんだから、当然わたしがオリジナル写真を持っていることは知っていた。知っていて泳がせていたことになる。もちろん監視つきだ。尾行していたのがあの茶髪のチンピラだけとは限らない」
「なんのために」
答えは最初から出ていた。そこに戻るのか。馬鹿な。
「あの母親と子どもの写真を鑑定させるためだ。松浦とわたしにとって、自然な形でだ」
なんなんだ、あのヤクザは。
いや、ヤクザの範疇を逸脱しているとしか思えない。かけている天秤が全く釣り合っていないことに気づいていないのだろうか。いや、釣り合っているのか。やつにとっては。異常だ。どこか故障しているとしか思えない異常さだった。
こっちの頭がおかしくなりそうだ。
最後に残っていた疑問をようやく口にする。
「どうして田村の隠れ家が分かったんです」
日中、僕とずっと行動していたのだから、おそらく寺から戻って来て二手に分かれた後にどこかで情報を入手したのだろうが、石田組にも知られていないあの場所をどうして知ることが出来たのか不思議でならなかった。
ところが師匠は、驚くようなことを言った。
「知ったのは今日の朝だよ。お前もいた時だ」
今日の朝だって?
それは小川調査事務所で朝から用もなくデスクに肘をついていた時のことか。一体その時どうやって?
「服部だよ。あの根暗野郎。昨日田村が腹を刺されてうちに転がり込んで来た時、いつの間にかいなくなってたろ。あいつ、田村が出て行った時、どこかに隠れててそのまま尾行したんだよ。大した理由もなく。なんとなく、とかで。変態だ、変態。所長に尾行のテクを褒められていい気になってんだ。多分、事務所に『田村が見つかった』って電話したのは、服部だ。ヤクザどもが田村を追ってるのに気づいて。うちの事務所もやばい状態になってると考えたんだろ。助け舟のつもりかあの野郎」
師匠が日ごろ本人に面と向かって言わない辛らつな言葉を、吐きまくる。
「で、追っ手から逃げ切った田村が隠れ家に入ったところまで見てたんだよ。それであいつどうしたと思う? 今朝、所長から電話があっただろう。田村が捕まってなかったから、石田組のやつらが来る前に帰れって。それであの根暗、ワープロ立ち上げたまま帰ったろ。消そうとして画面見たら、田村の名前と住所が書いてあったよ。クソったれ。所長に報告せずに、わたしに投げたんだ。おかげで振り回されて散々な目に合ったよ」
散々な目にあったのは僕もだ。だったら今日、最初から師匠は田村の居所を知っていたんじゃないか。
もうなにがなんだか分からない。
「田村が松浦の網に掛かった後、別の場所に移された可能性も高かった。でもこの隠れ家が石田組の網からは完全に外れているとしたら、そのままそこに監禁している可能性もあった。五分五分といったところか。無駄足にならなくて良かったよ」
あいつも多分、腕の一本も落とさずに済むんじゃないか。
師匠は無責任にそう言う。
僕は足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。勝手にしろ、という気分だった。
一歩進むたびに、身体のどこかが痛かった。そのたびに、苛立ちが募っていく。隣の師匠の方を見たくなかった。
そして一歩進むたびに、その苛立ちが、師匠と夏雄が一緒にいるところを見るたびに感じているものと同質のものではないか、という気がしてきて、余計に僕の心はかき乱される。
師匠は多分、松浦の冷酷な瞳の後ろに広がる虚無に、ひかれている。ヤクザであるあいつが嫌いだという事実と同じくらいの確かさで。そのことが、どうしようもなく僕を苛立たせるのだった。
『私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか』
頭の中で、松浦の去り際の言葉が繰り返し再生される。繰り返されるたび、その言葉の音色は希薄になり、やがて意味だけが残される。
僕は行く手に伸びる暗い夜道をじっと見据える。僕らのほか、歩く人の姿はない。だがその光景も、師匠の目には全く別の様相を見せているのかも知れない。無数のうつろな人影が闇に漂う不確かな光景が……
アキちゃんの見る世界。師匠の見る世界。松浦の見る世界。そしてこの僕の見る世界。どれが正しいなんてことは、きっとないのだろう。ただどれも少し似ていて、そして違っているのだ。
『お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』
去り際の言葉が消えていった後で、入れ替わりに松浦の最後の伝言が脳裏をよぎった。
馴れ馴れしい言葉だ。素面でよくこんなセリフを吐けるものだ。
苛立ちが再び湧き上がる。しかし僕は、その言葉の中に微妙な違和感を覚えていた。
なんだ。なにが気になるんだろう。なにかがぴたりと嵌った感じ。あまりに状況を射抜いているような……
そこまで考えた瞬間、僕は立ち止まって師匠の背中を指さしていた。
師匠は怪訝な顔をしていたが、すぐにハッと気づいたように背中のリュックサックを下ろした。焦ったのか、ジッパーを開けるのに手間取る。
そしてようやく差し入れた手が中を探り、また出てきた時には白い封筒が握られていた。封筒はかなり厚い。簡単には折れないくらいに。
師匠は歯軋りをして、複雑な表情を浮かべたまま呟いた。
「下請けの下請けをやってるような零細興信所の規定料金、買いかぶりすぎだ」
いつの間に入れたんだ!
僕は驚愕する。
さっき事務所でテーブルに写真を並べて話し合っていた時だ。それしか考えられない。リュックサックも確かに口を開けたまま近くに置いていた。しかし僕も師匠も全く気づかなかった。そんなそぶりさえ。ぶつかりざま、写真を師匠の服に滑り込ませた田村とは全くレベルの違う技だ。
師匠は抑え切れない怒りを全身に漲らせ、リュックサックを背負いなおす。
「化け物に、喰い殺されろ」
押し殺した声でそう吐き捨てると、足を強く踏み鳴らしながら歩き出した。
後を追う僕の目の前に、一万円札がひらひらと舞いながら落ちて来る。宙に放り投げられた、くだらないものたちが。
何枚あるのか、数え切れない。
そんなものが舞う、街の明かりが遠く幻のように見える暗い道を、僕らは振り返らずに歩いた。
(完)
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ウニさんのPixiv/師匠シリーズ「心霊写真」より転載させていただきました。
『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて
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ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん
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