Youtubeで怪談朗読を配信中の136(イサム)さんの怪談朗読を中心に生録音ファイルをUPしています。作業用BGMや睡眠時のおともにぜひ!

【眼と耳で読む】先生【師匠シリーズ】

※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
 
 


 

[h2vr]
「先生」

 

師匠から聞いた話だ。

長い髪が窓辺で揺れている。
蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとか、そういうざわざわしたものをたくさん含んだ風が、先生の頬をくすぐって吹き抜けて行く。
先生の瞳はまっすぐ窓の外を見つめている。
僕はなんだか落ち着かなくて鉛筆を咥える。
こんなに暑いのに先生の横顔は涼しげだ。
僕は喉元に滴ってきた汗を指で拭う。
じわじわじわじわと蝉が鳴いている。
乾いた木の香りのする昼下がりの教室に、僕と先生だけがいる。
小さな黒板にはチョークの文字が眩しく輝いている。三角形の中に四角形があり、その中にまた三角形がある。
長さが分かっている辺もあるし、分かっていない辺もある。
先生の描く線はスッと伸びて、クッと曲がって、サッと止まっている。
おもわずなぞりたくなるくらいの綺麗な線だ。
それからセンチメートルのmの字のお尻がキュッと上がって、実にカッコいい形をしている。
三角形の中の四角形の中の三角形の面積を求めなさい、と言われているのに、そんなことがとても気になる。
それだけのことなのに、本当にカッコいいのだ。
mのお尻に小さな2をくっつけるのがもったいない、と思ってしまうくらい。
「できたの」
その声にハッと我に返る。
「楽勝」
僕は慌てて鉛筆を動かす。
「と、思う」と付け加える。
先生は一瞬こっちを見て、少し笑って、それからまた窓の外に向き直った。
背中の剥げかけた椅子に腰掛けたままで。
僕は小さな机に目を落としているけれど、それがわかる。
また、蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとかが風と一緒に吹いてきて、先生の長い髪がさらさらと揺れたことも。
白い服がキラキラ輝いたことも。
二人しかいない教室は時間が止まったみたいで。
僕はその中にいる限り、夏がいつか通り過ぎるものだなんてことを、なかなか思い出せずにいるのだった。

 
小学校六年生の夏だった。夏休みに入るなり、僕は親戚の家に預けられることになった。
その母方の田舎は、電車をいくつも乗り継いでやっとたどり着く遠方にあった。
小さいころに一度か二度連れてこられたことはあったけれど、一人で行かされるのは初めてだったし、『夏休みが終わるまで帰ってこなくて良い』と言われたのも、当然初めてのことだった。
厄介払いされたのは分かっていたし、一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいた僕は、むしろ『帰ってこなくて良い』の前に、『夏休みが終わるまで』がくっついていたことの方に安堵していた。

田んぼに囲まれた畦道を、スニーカーを土埃まみれにしながらてくてく歩いていくと、大きなイブキの木が一本垣根から突き出て、葉を生い茂らせている家が見えてきた。
この地方独特の赤茶色の屋根瓦が陽の光を反射して、僕は目を細める。
その家には、おじさんとおばさんとじいちゃんとばあちゃんと、それからシゲちゃんとヨッちゃんがいた。
おじさんもおばさんも、親戚の子どもである僕にずいぶん優しくしてくれて、「うちの子になるか」なんて冗談も言ったりして、二人とも農作業で真っ黒に日焼けした顔を並べて笑った。
じいちゃんは、頭は白髪だったけど足腰はピンとしていて、背が高くて、ガハハと言って僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でたりして、それが痛かったり恥ずかしかったりするので、僕はその手から逃げ回るようになった。
ばあちゃんは、小さな体にチョンと夏みかんが乗ってるような可愛らしい頭をしていて、なにかを持ち上げたり布巾を絞ったりする時に、「エッへ」と言って気合を入れるので、それがとても面白く、こっそり真似をしていたら本人に見つかって、怒られるかと思ったけれど、ばあちゃんは「エッヘ」と言って本物を見せてくれたので、僕はあっというまに好きになってしまった。

シゲちゃんは名前をシゲルと言って、僕と同い年の男の子で、昔もっと僕が小さかったころにこの家に遊びにきた時、僕を子分にしたことを覚えていて、僕はさっぱり覚えていなかったけれど、まあいいやと思ったので子分になってやった。
ヨッちゃんは名前をヨシコと言って、シゲちゃんの二つ年下の妹で、目がくりくりと大きく、オカッパ頭の元気な女の子で、僕の顔や服の裾から出ている体の色が白いのを見て、トカイもんはヒョロヒョロだと言って馬鹿にするので、そうではないことを証明するのに、泥だらけになって日が暮れるまで追いかけっこをする羽目になった。

トカイもん。
田舎にきてまず感じたのが、この言葉のむずむずする肌触り。
僕にはけっしてトカイの子などという認識はなかったのであるが、この小さな村の子どもたちからすると、テレビのチャンネルがNHKのほかに三つ以上映るというだけで、それは十分トカイの条件を満たしてしまうようだった。
シゲちゃんはそのトカイもんを、さっそく地元のワルガキ仲間に引き合わせてくれたので、とにかく毎日ヘトヘトになるまで僕らは一緒に駆け回り、泳ぎ回り、投げ回り、逃げ回った。
小学生最後の夏休みなのだ。アタマが吹っ飛ぶくらい遊ぶのは、子どもの義務なのである。
タカちゃんやらトシボウやらタロちゃんなんかと仲良くなった僕は、どいつもこいつも揃って足が速いこと、そしてまた、並べてフライパンで焼いたように色が黒いことに、いたく感心した。
なるほど。『トカイもん』と自分たちを区別したくなるのも分かる気がする。
僕の周囲にいた子どもたちとは少し違っている。
朝早くから虫カゴと網を持って山に入ったかと思うと、ヒグラシが鳴きやむまで下界に下りてこず、いざ帰ってきた時には、手作りの大きな虫カゴが満タンになっているのだけれど、その夜それぞれの親に、早く家に帰らなかったことについてコッテリ絞られた後だというのに、次の日には、また颯爽と朝早くから虫カゴと網とを持って山に駆け上って行く、という具合だ。

その中でも、シゲちゃんはとびきりのやんちゃ坊主で、それになかなかの親分肌だった。
いばりんぼで喧嘩っ早かったけれど、子分のピンチには一番に駆けつけて「ヤイヤイ」と凄んだり、「にげろ」だとか「とにかくにげろ」だとかといった的確な指示を出して、僕らを窮地から救い出してくれたりした。
背丈は僕と同じくらいだったけれど、ギュウギュウに絞った雑巾のような筋肉が全身に張り付いていて、その足が全力で地面を蹴った時には、大きな水溜りをらくらくと跳び越し、あとから跳んだ僕らの足が水溜りの端っこでドロ水を撥ねるのを、振り返りながら鼻で笑ったものだった。
ただ、そんなシゲちゃんの親分っぷりの中にも、生来のイタズラ好きが首をもたげてくると、僕らはその奇抜さ、迷惑さに閉口した。
山で見つけた変なキノコを、「キノコの毒は火を通せば大丈夫」などと言って、うっかり信じたトシボウに食べさせた時など、腹を抱えて昏倒したあげくに、医者に担ぎこむ騒ぎになったし、落とし穴づくりに関しては、それはそれは恐ろしい『穴の中身』を用意することで知られていた。

ある時は裏山の竹ヤブに僕らを集め、なにをするのかと思っていると、シゲちゃんは「あ、人が落ちそう」と、崖の方を指さして叫んだ。
見ると、確かに誰かが竹ヤブの端っこから落ちそうになって、竹の子に毛が生えたような細い竹にしがみついている。
それは今にもポキリと折れそうに見えた。
わあわあ言いながら慌てて駆け寄ると、なんとそれは藁と布で出来た人形で、シゲちゃんに一杯食わされた僕らは怒ったり、あんまりその人形が良くできていたので感心したりしていたけれど、間の悪いことに、山菜を採りにきていた近所のおばさんが、そのシゲちゃんの「人が落ちそう」を耳にして、遠くから僕ら以上に慌てて人形に駆け寄ってきたものだから、途中で竹の根っこに躓いてスッテンコロリンと転がり、あやうく崖から落っこちるところだった。
僕らはそのおばさんに叱られ、それぞれの家でしかられ、とにかくさんざん絞られたのであるが、シゲちゃんはさらに人形の出来が良すぎたせいで、カカシの作成をじいちゃんに命じられ、家の田んぼと畑のカカシを全部作り直させられていた。

そのあいだシゲちゃんは遊びにも行けずに、うなだれながらカカシをせっせと作っていたのだけれど、その目の奥には、次のイタズラを考えている光がぴかりと点っていて、僕らにはそれが、頼もしかったり迷惑だったりしたものだった。
 

田舎の暮らしにもすっかり慣れて、シゲちゃんたちほどではないけれど、僕の身体にも日焼けが目立ち始めたある日、「鎮守の森へ行こう」というお誘いがかかった。
鎮守の森は、北の山の峰に沿ってズンズン分け入った奥にある。
高い山に囲まれているせいで、太陽が東や西よりにある時間そのあたりは昼間でも暗くて、真上に昇っている時でも、生い茂るクスノキやヒノキの枝や葉っぱで光が遮られ、
その森の底を歩く僕らには、ほんのかけらしか零れてこない。
それだから、シゲちゃんとタロちゃんの後を追いかけて、ようやく鎮守の森の真ん中に佇む神社を見つけた時には、なんだか厳粛な気持ちになっていた。
今まで太陽の熱が暴れ回る場所で遊んでいたのに、ここは黒い土に地面が覆われ、空気はしっとりしていて、身体の中から冷えていくような感じがする。
それまでに登ったほかの山や森ともどこか違う。
「カンバツもほとんどしとらんから」と、シゲちゃんは言った。
そのころはカンバツというのがなんなのか良く分からなかったけれど、きっとそれをしないのは、ここが鎮守の森だからなのだろうというのは理解できた。
ひっそりと静まり返った参道を通って、(後から思い出すと、蝉がうるさいくらいに鳴いていたはずだったのに、確かにその時はそう思ったのだった)ちんまりした神社の本殿にたどり着く。
光も影も斜めに屋根や板壁に走り、それがずっと何百年も昔からそこにそうやって張り付いているような気がする。
時どきサラサラと葉っぱの形に揺れて、そんな時にようやく僕は時間の感覚を取り戻した。
チャリン
と音がしてそちらを向くと、賽銭箱の前にシゲちゃんが立っている。
ボロボロで苔が生えていて、誰かがお賽銭を回収しているのかどうかもちょっと怪しい。

実は江戸時代くらいからのお賽銭がゴッソリと溜まっているんじゃないかと覗いてみたけれど、暗くて良く分からず、それでもゴッソリと溜まってる感じでもなかったので、どうやらここへ参拝にくる人自体がめったにいないんだろうと僕は考えた。
そして、ズボンのポケットから十円玉を取り出して投げ入れる。
その神社に何の神様が奉られているのか誰も知らなかったけれど、チリンというとても良い音がしたので、僕はその音に手を合わせた。
やがて「もう帰ろうぜ」とタロちゃんが言って、境内から出たがり始める。
心なしか内股でもじもじしている。どうもおしっこを催してきたらしい。
口ばかり達者なくせに恐がり屋な面があるタロちゃんは、この鎮守の森の奥深くに眠る神社の聖域を、おしっこなんかで汚してしまうことに畏れを感じているようだった。
ようするにビビッてたワケだ。
僕とシゲちゃんはタロちゃんを苛めることよりも、その場を離れることを選んだ。
僕らも僕らなりに、その森になにか近寄りがたいものを感じていたのかも知れない。

クスノキが枝葉を手のように伸ばす薄暗い参道を抜け、また黒土の山道に出る。
気が焦っているタロちゃんが、「あれ、どっちだっけ」とキョロキョロしていると、シゲちゃんが「こっち」と、元きた道の方を正しく指さした。
僕はふと、反対方向へ抜けるもうひとつの道に目をやった。
道はすぐに折れ、木立の群に飲み込まれてその先は見えない。この道の先はどこに通じているのだろう。
むくむくと好奇心がわき上がってくる。
「こっちはなにがあるの」
そう聞くと、シゲちゃんは「なんにもないよ」と言って、さっさと元の道を戻り始めた。
僕はその奥へ行ってみたい誘惑に駆られたけれど、ひとりで鎮守の森に残される心細さがじわじわと胸に迫ってきて、その場に立ちすくんでしまった。
そうしていると、いきなりバサバサと頭の上の木のてっぺんあたりから大きなものが飛び立つような音と気配がして、思わず見上げると、その瞬間に覆い被さるような木の枝や葉っぱやそこから零れる光の繊維が、ぐるぐると僕の視点を中心に回り出したような感覚があった。
頭がくらくらしたのとビビッたのとで、森の奥へ行ってみたい気持ちは引っ込み、一目散にシゲちゃんたちの後を追いかけた。

それから三日くらい、僕らはひたすら川で泳ぎ回っていた。とにかく暑かったからだ。
川は海よりも体が浮かななくて、しかも流れがあるので、岸に上がった時にドッと疲れる感じ。
その川には小さな橋が架かっていて、その上から飛び込むのが僕たち子どもの格好の度胸試しになっていた。
僕も泳ぐのは得意だったし、川底も深かったのでしばらく躊躇したあと、見事に頭からドブーンとやってやった。
プシューッと水を吹きながら、他のみんなと同じように水面に顔を出すと、橋の欄干の上にプロレスラーよろしくシゲちゃんが立っているのが見えた。
「見てろ」と言って、シゲちゃんはみんなの視線を集めながら宙を舞った。
歓声と光と水に溶けていく体温。太陽の中に僕らの夏があった。

 
そうしているうちに、やがて僕が一人で遊ばなくてはいけない日がやってきた。
シゲちゃんたち六年生が、みんな二泊三日で林間学校に行くのだ。
僕も連れて行って欲しかったが、学校行事なのでどうしても駄目らしい。
リュックサックを背負って朝早くに家を出るシゲちゃんを見送って、今日からの三日間をどうしようかと考えた。
家は農家だったので、おじさんとおばさんとじいちゃんは、朝ごはんを食べたあと軽トラに乗って仕事に行ってしまう。
ばあちゃんがゴトゴトと家の仕事をする音を聞きながら、僕は持ってきていた宿題を久しぶりに開いた。
広い畳敷きの部屋で、大きな机の真ん中に頬杖をつく。何ページか進むともう飽きる。
宿題なんて夏休み最後の三日くらいでやるものと決まってる。
それまでにやらなくてはならないほかのことがあるんじゃないのか?エンピツがコロコロと転がる。
縁側の向こうの庭には太陽がさんさんと照っていて、こちらの部屋の中がやけに暗く感じる。
寝転がったり、宿題を進めたり、また休んだりを繰り返していて、ふと時計を見ると朝の九時。まだ九時なのだ。
お昼ご飯まで三時間以上ある。ダメだ。どうにかなってしまう。

僕は一人で行ける場所を考えた。いつもみんなでは行かない場所がいいな。図書館とか。
あれこれ考えていると、ふと頭の隅に鎮守の森の神社が浮かんだ。
そして、カンバツされていない木々の下の翳りの道。その先にまだ道は続いていた。
またむくむくとその先へ行ってみたい気持ちがわき上がってきた。
あの森の中では萎えてしまったその気持ちがもう一度強くなってくる。
ひとりでも行けるさ。どうってことない。そうだ。午前中に、今すぐに行こう。
日の高いうちならそんなに恐くないはずだ。
思い立ったらすぐに身体が動いた。宿題のノートを畳んでから支度をする。
リュックサックを担いでいると、その気配を感じたのか、シゲちゃんの妹のヨッちゃんが、襖の隙間からじっとこっちを見ていた。
「どっか行くの」
瞬間、僕はこの子も連れて行ったらどうかなと考えた。でもすぐにそれを振り払う。冒険に女は連れて行けない。
なにが待っているのか分からないのだから。
「郵便局に行くだけ」と言うと、「ふうん」とつまらなそうにどこかへ行ってしまった。
ようし。邪魔者も追い払った。僕は意気揚々と家を出る。

太陽の照りつける畦道を北へ北へと向かうと、こんもりとした山の緑がだんだんと近づいてくる。
昔、入山料を取っていたというころの名残で、ある木箱が朽ち果てている所が入り口。
峰を登らずに、山の麓に沿って道が通っている。
ザクザクと土を踏みしめて前へ前へ進むと、だんだんと木の影で頭上が薄暗くなってくる。
念のために持ってきた方位磁針をリュックサックから取り出して、右手に持ったまま休まずに足を動かす。
時どき山鳩の声が響いて、バサバサと葉っぱが揺れる音がする。
それから蝉の声。それも怖くなるほどの大合唱だ。
チラリと見上げると、葉の隙間からキラキラと光の筋が零れている。
ずっと上を向いて音の洪水の中にいると、ここがどこなのか分からなくなってくる。
なんだか危険な感じ。慌てて前を向いて歩き出す。

途中、山に登る横道がいくつかあったけれど、なんとか迷わずに鎮守の森の神社までたどり着けた。
一応お参りしておくことにする。木に囲まれた参道を進み、小さな鳥居をくぐる。
古ぼけた建物がひっそりと佇んでいるその前に立ち、お賽銭箱にチリンと百円玉を投げ込む。やっぱり良い音だ。
神社の中には人の気配はない。誰か通ってきて手入れをしたりしているのだろうか。
くるりと回れ右をして、元きた参道をたどる。

途中で小さな池があるのに気づいて横道に逸れた。鳥居の横あたりだ。
水面ではアメンボがすいすいと泳いでいるけれど、水の中は濁っていてよく見えない。
雨が降らないあいだはきっと干上がるんだろうな、と思いながら顔を上げ、参道に戻る。

サクサクという土の音を聞きながら歩いていると、なにか大事なものを忘れた気がして振り向いた。
そこには鳥居があるだけだったけれど、そう言えば帰りに鳥居をくぐってないなと思い出す。
まあいいやと思って先へ行くと、だんだんと変な、ぐるぐるした感じが頭の隅にわいてきて、それがどんどん大きくなってきた。
なんだろう。気分が悪い。景色が妙に色あせて見える。
僕はキョロキョロとあたりを見回したい気持ちを抑えて、光と影が交互にやってくる参道を早足で抜けた。
どうしよう。戻ろうか。
そう考えたけれど、また逃げ帰るのはシャクに触る。
どっかから勇気がわいてこないかと待っていると、お賽銭箱に百円玉を入れたチリンという音が耳に蘇ってきた。
ようし、百円だからな。前は十円。今日は百円だ。
そんな感じで無理やり勇気を引っ張り出して、帰り道の反対方向へ足を向けた。ザンザンと土を踏んで歩く。

蝉の声は相変わらずやかましくて、あたりは薄暗くて、どこまでも同じように曲がりくねった道が続いている。
道の先には誰の足跡もない。時どき振り返るけれど、地面には僕の足跡がついているだけ。
カーブのたびに、誰か僕じゃない人の姿が木の影に隠れたような気がするけれど、きっとサッカクなのだろう。
だんだん道は狭くなり、倒れた木がそのまま放っておかれて、キノコなんか生えちゃってるのを見ると、
やっぱりこの先は、ただの行き止まりじゃないかと考えてしまう。
リュックサックにつめた保存食料、まあそれはクッキーやリンゴだったのだけれど、そういうものが役に立つようなことがないように祈りながら、
方位磁針を見たり、振り返ったり、チリンという音を思い出したりして、僕は歩き続けた。

やがて一際暗い木のアーチが、まるでトンネルの幽霊のように現れ、僕は少しだけ足踏みをしてから、その奥に吸い込まれて行く。
なんという名前の木だろう。分厚い葉っぱが頭の上を覆い尽くして、光がほとんど漏れてこない。
時どき暗がりから白い手がスイスイと揺れているのが見えた気がして、身体が硬くなる。
足元を見ると、僕の足は確かに今までと同じ土を踏んでいて、その上に立っている限りは大丈夫だと自分に言い聞かせながら、ほとんど走るようなスピードでそのトンネルを抜けた。
ぱあっ、と目の前が明るくなる。
白い雲がぽつんと空に浮かんでいる。
その下には緑の眩しい畦道が伸びている。畑がある。山の上にはいくつか家が見える。
ツバメが飛んでいる。蛙が鳴いている。
僕は、はぁっ、と息を吐き出して、それから吸い込む。
なんだ、別の集落に通じているじゃないか。
シゲちゃんめ。嘘こきやがって。そう思って、自然に軽くなる足を振り上げ畦を進む。
でも良く考えると、途中の森の中になにもなかったのは確かだ。
ううむ。嘘つきだと言ってやっても、へこませられるか自信がないな。
ふと思いついて振り返ると、さっき抜けた森の入り口がぽっかりと暗い口を開けている。

帰る時にまたあそこを通るのかと思うと、少し嫌な気分になったけれど、ひょっとするとほかに道があるかも知れないと考えて、とりあえず誰かこのあたりの人を探すことにした。
ひまわりが咲いている道をキョロキョロしながら歩いていると、そこは山に囲まれた案外小さな集落だと気づく。
段々畑が山の斜面に並んでいて、埋もれるように家がぽつんぽつんとある。
道には太陽が降り注ぐばかりで、ほかに歩く人の影も見えない。
僕は勾配のなだらかな坂道を登って、大きな屋根が見えている場所へ向かった。

汗を拭いながら登りきると、そこには広い庭と木造二階建ての古そうな家があった。
とても大きい。庭も、庭というより広場みたいな感じ。隅っこの方に鉄棒と砂場が見える。あれ?
なんだか学校みたいだなと思ったけれど、学校にしては小さすぎる。少なくとも僕の知っているものよりは。
その時、二階の窓に誰かいるのに気がついた。
風が吹いて僕の髪が揺れるのと同時に、その人の髪も揺れた。黒くて長い髪。白い服。女の人だ。
窓際に頬杖をついて、ぼうっと広場の隅を見ている。
なんだか胸がドキドキした。僕は広場の真ん中にり突っ立って、その人を見上げていた。
でもいつまで経っても、その人はこっちに気づく気配はなかった。
僕は方位磁針をポケットに仕舞ってから、「あのぅ」と言った。
あんまり声が小さかったので、すぐに「すみません」と言い直した。
それでもその人は気づいてくれず、ぼうっとしたまま外を見ていた。
なんだか恥ずかしくなってきて帰りたくなったけれど、もう一回声を張り上げた。
「すみませぇん」
次の瞬間、なにかかが弾けたような感じがした。
その人がこっちを見た。わ、どうしよう。確かに、ぱちんという感じに世界が弾けたのだ。
その人は最初驚いたような顔をして、次に、ぼうっとしていた時間が去ったのを惜しむような哀しい顔をして、
それから最後ににっこりと笑うと、「こんにちは」と言った。

僕にだ。僕に。
「どうしたの」
その人は窓から少し乗り出して、右手を口元に添える。
「ここはどこですか」と、僕はつまらないことを聞いてしまった。
なにかもっと気の利いたことが言えたら良かったのに。
「ここはね、学校なの」
「え?」
「がっ・こ・う。ね、上ってこない?すぐそこが玄関。下駄箱にスリッパがあるから、履いてらっしゃい」
「は、はい」と、僕は慌ててその建物の玄関に向かった。

開け放しの扉の向こうに、埃っぽい下駄箱と板敷きの廊下があった。
電気なんかついていなかったけれど、ガラス窓から明るい陽射しが差し込んできて、中の様子がよく見えた。
左右に伸びる廊下には、『一、二年生』や『三、四年生』と書いてある白い板が壁から出っ張っていて、その向こうは小さな教室があるみたいだった。
玄関の向かいにはすぐに階段があって、僕は恐る恐る足を踏み出す。
なにしろ片足を乗っけただけでギシギシいう古ぼけた木の階段なのだ。
狭い踊り場の壁には、画鋲の跡と絵かなにかの切れ端がくっついていた。
二階に着くと、一階と同じような板敷きの廊下が伸びていて、その左手側の教室から、さっきの女の人が手を振っていた。
「いらっしゃい」
僕はなんて返事していいか困った挙句、「どうも」と言った。
その人はくすりと笑うと、
「ここはね、むかしは小学校だったの。今はもうやってないけど。子どもが減ったのね」
と、僕を教室の中に誘った。
白い板には『六年生』と書いてあった。
小さな教室には机が五つあった。それが最後の卒業生の数だったのかも知れない。
僕はたくさんの机がぎゅうぎゅうに詰まっている自分の学校の教室を思い浮かべて、なんだか目の前のそれがおもちゃのように見えて仕方がなかった。

その人は机に手を触れながら、明るい表情で言う。
「もともとこの土地は私の家のものだったから、廃校になったあと返してもらったのよ。ボロの校舎付きでね。
 壊してもいいんだけど、今は家に私と母がいるだけだから、おうちなんて小さくてもいいもの。
 ほら、校舎のすぐ横に平屋があったでしょ。あそこに住んでるのよ」
そう言われればあった気がする。
「今は夏休みでしょう。私、夏休みのあいだ、このあたりの子どもたちに、ここで勉強を教えてあげてるの」
「勉強?」
「うん。私、隣の町で小学校の先生をしてるの。臨時雇いだけど。
 私も夏休みだから、することがなくって。暇つぶしもかねてね。
 だからこの夏休み、学校ではお月謝はもらってないの。ただし午前中だけね。

 学校の宿題は教えてあげない。
 普段は決められた時間に、決められた科目を勉強してる子たちを、
 夏のあいだだけでも、その子の好きな科目、興味がある科目を、少しでも伸ばしてあげられたらなぁって」
指が机の木目を撫でる。
「でも、みんな今日はお休みなのよ」
そう言って顔が少し曇った。
「風邪が流行っているみたい」
そして窓の外に目を移す。僕も釣られてそちらを向く。
「あなた、何年生?どこの子?言葉が違うね」
「え、あ」
僕はちょっとどもってから、自分が六年生であること、
そして、遠くからきて、親戚の家に滞在していることを説明した。
それから家の名前を言う。けれど言ってから、その近所はみんな同じ苗字ばかりだったことを思い出して、
「おっきなイブキの木が庭にある家です」と付け加えた。
するとその人は、「ああ、シゲちゃんのところね」と頷くのだった。
僕はなんだかわからないけど悔しくなり、口を尖がらせた。
そして、あの鎮守の森の先にはなにもないと言ったシゲちゃんの言葉は、やっぱりわざとついた嘘だったんだと思った。

なぜって。
その人は目が大きくて、すらっとしていて、少し大人で、それから花柄の白いワンピースが似合う、ちょっと秘密にしたくなるような、綺麗な人だったからだ。
「この教室が一番ちゃんとした形で残ってるから、いつもここで教えてるのよ。
 探検にきて迷ったんでしょ。勉強していきなさいよ。ね、誰もこなくて、私も退屈してたから」
そうしてその人は、僕の先生になった。

教室に机は五つ。一つは先生が座る席。さっきみたいに窓際で頬杖をつくための席だ。
そして残りが、夏休み学校の生徒の数だった。
先生はわざわざほかの教室から、僕のための机と椅子を運んできてくれた。
「五人目の生徒ね」と言って笑った後、
この学校の最後の卒業生の席が、そのまま残っているのかと思ったことを話す僕に、ゆっくりと首を振った。
「最後の卒業生は二人だった。一人は私。
 卒業するのは寂しくて悲しかったけど、中学生になることは嬉しかったし、
 それから、学校がなくなってしまうことが悲しかったな。
 マイナス1プラス1マイナス1で、やっぱり悲しい方が大きかった気がする。もう十年以上経つのね」
先生が目を少し細めると、瞳の中の光の加減が変わって、ちょっぴり大人っぽく見えた。
「さあ、なにを勉強しましょうか。なにが好き?」
僕は考えた。
「算数が嫌い」
先生は僕の冗談に笑いもしないで、「うん、それから?」と言った。
「社会と国語と理科と家庭科と図工と音楽が嫌い」
僕が並べた一つ一つに頷いたあと、先生は「よし、じゃあぴったりのがあるわ」と黒板に向かった。
小さくてかわいい黒板だ。チョークを一つ摘んで、キュッと線を引く。
『世界四大文明』
そんな文字が並んだ。

先生の字はカッコ良かった。今までのどんな先生よりもカッコいい字だった。
だからその世界四大文明という言葉も、凄くカッコいいものに思えて、なんだかワクワクしたのだった。
「世界史って言ってね、あなたが学校で習うのはまだ先だけど、
 算数も国語も社会も理科も嫌いなら、勉強自体が嫌いになっちゃうじゃない。
 勉強することなんて、まだまだ他にたくさんあるんだから、
 自分が好きになれるものを見つけるのも、きっと大事なことだと思う。
 ノートも取らなくていから、気楽に聞いてね」
そうして先生は、僕に世界史の授業をしてくれた。
はじめて体験する授業はとても面白く、
先生の口から語られる遥か遠い昔の世界を、僕は頭の中にキラキラと思い描いていた。

やがて先生はチョークを置き、「今日はここまで」とこちらを向いた。
エジプトのファラオが自分のピラミッドが出来ていくのを眺めている姿が遠のき、僕は廃校になったはずの小学校の教室で、今日出会ったばかりの先生と二人でいることを思い出す。
「どう、面白そうでしょう」と聞かれたので、うんうんと頷く。
先生はにっこりと笑うと、
「よかった。実は私、大学で史学科専攻だったの。準備なしだから、算数以外だとこれしか出来なかったんだな」
と言って、ペロリと舌を出した。
その仕草がとても可愛らしくて、僕はショックを受けた。つまり、まいってしまったのだ。
「もうお昼ね。今日はおしまい。明日はもっと早くきなさい」
だからそんな先生の言葉にも、あっさりと頷いてしまうのだった。

なんだか、ふわふわしながら校舎をあとにして、
広場ならぬ校庭で振り向いた僕を、二階の教室の窓から先生が手を振って見送ってくれた。
ぶんぶんと僕も負けないくらい手を振ったあと、明日も絶対くるぞと心に誓って帰路についた。
やっぱり帰るには、あの鎮守の森を抜けなくてはならない、と聞かされた時はゲッと思ったけれど、今日あったことを思い返しながら足を無意識に動かしていると、気がつくと森を抜けていた。
くる時はあんなに薄暗くて怖い感じがしたのに、今度はやけにあっさりと通り抜けてしまったものだ。

そのあと僕はイブキの木のある家に帰って、ばあちゃんが作ってくれたそうめんを食べ、放り投げていた宿題を少しやってから昼寝をして、ヨッちゃんとその友だちに混ざって缶蹴りなどをしていると一日が終わった。

その夜、シゲちゃんがいない家はやけに静かで、電気を消してから、僕は蚊帳越しに天井の木目を見上げて、今日出会った先生と、あの小さな学校のことを考えた。
今朝、勉強なんか嫌いで外に飛び出したのに、今は早くあの学校に行きたくて仕方がなかった。
なんだか不思議だった。

次の日の朝。朝ごはんを食べるとすぐに僕は家を出た。
ヨッちゃんにやっぱり「どこ行くの」と聞かれたが、「どっか」とだけ応えて振り切った。
今日はリュックサックはなし。保存食がいるような大冒険ではないと分かったからだ。

昨日と同じように鎮守の森に入り、薄暗い木のアーチを潜ったけれど、今日はそんなに怖くなかった。
誰もいない畦道を抜け、坂道を登ると学校が見えてくる。
その二階の窓辺に先生がいる。頬杖をついてぼうっと外を見ている。
僕は手を振る。今度はすぐに気づいてくれた。
「いらっしゃい」
「いま行きます」
そうして教室に入る。

今日もほかの子どもたちはこないみたいだ。
手持ち無沙汰だった先生は嬉しそうに僕を迎えて、「昨日の続きからね」とチョークを握った。
シュリーマンがトロヤ遺跡を発掘した話から始まって、
エーゲ海に栄えたミケーネ文明が滅びた後、鉄器文化の時代に入ると、
ギリシアではたくさんのポリスという都市国家が生まれた、ということを学んだ。
その中から、アテネやスパルタといった有力なポリスが現れて、
東の大帝国アケメネス朝ペルシアの侵攻に対抗したのがペルシア戦争。
ペルシアを撃退したあとに、各ポリスが集まって結成したのがデロス同盟。

その盟主アテネと、別の同盟を作ったスパルタが戦ったのがペロポネソス戦争。
衆愚政治に陥って弱体化したアテネやスパルタに代わって台頭してきたテーベ……
『テーベ』
先生のチョークがそこで止まる。教壇に立つ背中が硬くなったのが分かった。
どうしたんだろうと思う僕の前で、先生はハッと我に返ると、すぐに黒板消しを手にとって、『テーベ』を『テーバイ』に書き直した。
何ごともなかったかのように先生は、その後テーバイはアテネと連合して、北方からの侵略者マケドニアと戦ったけれど破れてしまい、時代はポリスを中心とした都市国家社会から、マケドニアのアレクサンドロス大王による巨大な専制国家社会へと移っていった、と続けた。
その書き直しの意味は、その時には分からなかった。
ただ先生の背中がその一瞬、重く沈んだような気がしたのは確かだった。

ヘレニズム文化の説明まで終わって、ようやく先生は手を止めた。
「疲れたね。ずっと同じ科目ばかりっていうのも飽きちゃうから、今度はこんなのをやってみない?」
そう言って渡されたのが、算数の問題が書かれた紙。ゲッと思ったが、よく見ると案外簡単そう。
「どこまで進んでるのか分からないから、少し難しいかも」
そんなことはないですぜ。とばかりにスパッと解いてやると、先生は「凄い凄い」と手を叩いて、
「じゃあ、これは」と、次の紙を出してきた。
余裕余裕。え?さらに次もあるの?今度は正直ちょっと難しいけど、なんとか分かる気がする。
僕は鉛筆を握り締めた。
そうして、いつのまにか世界史の授業は算数の授業に変わり、たっぷりと問題を解かされたところでお昼になった。
「また明日ね」

帰り道。結局『嫌い』だと明言したはずの算数を、いつのまにかやらされていたことに首を捻りながら歩いた。
算数の問題はプリントじゃなく手書きで、それを解いていると、なんだか先生と会話しているような変な気になる。
それほど嫌じゃなかった。また明日行こうと思った。

そうして僕と先生の夏休み学校が続いた。
朝は世界史の講義。次に算数。それから、いつのまにやら漢字の書き取りが加わっていた。
ほかの子は誰も夏休み学校にこなかった。
「悪い風邪が流行ってるから、あなたも気をつけてね」と言われ、僕は力強く頷く。
世界史の勉強は面白く、走りばしりではあったけれど、歴史の魅力を十分僕に伝えてくれた。
算数や漢字の書き取りの時間はあんまり楽しくはなかったけれど、
出来てその紙を先生に見せる時の、あの誇らしいような照れくさいような感じはキライじゃなかった。
僕が問題を解いているあいだ、先生は窓辺の席に腰掛けて折り紙を作っていた。
それは小さい折鶴で、ある程度数がまとまってから、先生は糸を通した鶴たちを窓にかけた。
「みんな早く風邪が直ればいいのにね」
そしてまた次の鶴を折るのだった。
僕は不謹慎にも、風邪なんか治らなくていいよと心の底では思っていた。
先生との二人だけの時間をもっと過ごしたかった。
でも、僕が机の上の問題にかかりっきりになっているあいだ、窓辺に座る先生の横顔は寂しそうで、その瞳が窓の外をぼうっと見るたびに、なんだか僕は切なくなるのだった。

「言葉が違うね」と僕に言った先生自身も、その言葉には訛りがほとんどなかった。
高校に入る時東京に出て、大学も東京の大学に受かって、ずっと向こうで暮らしていたらしい。
それが東京で就職も決まっていたのに、実家のお母さんが倒れたというので、すべてを投げ打って帰ってきたんだそうだ。
その話をしてくれた時、先生の瞳の光は曇っていた。
「私の家は母子家庭でね、お母さん一人を残して出て行っちゃった時、
 やっとこんな田舎から離れられるって、それしか考えてなかった。
 なんにも言わずに仕送りをしてくれてたお母さんが、どんな思いでこの田舎で働いていたか、全然考えてなかった」
だから今は臨時教員などをしながら、家で母親の看護をしているのだそうだ。

僕はお邪魔したことはないけれど、校舎の隣の小さな家に二人で暮らしているらしい。
先生には、なにかやりたいことがあったんだろうと思う。
それを捨てて、今はこうして田舎で子どもたちを教えている。小さなオンボロの学校で。手作りの問題集で。

お昼になって僕が帰る時、先生はいつも二階の窓から身を乗り出して手を振った。「明日もきてね」と。
僕はいつか夏が終わるなんて、考えていなかったのかも知れない。
蝉の声が耳にいつまでも残っていて、晴天の下をポッコポッコと歩いて、通る人の影もない道を、毎日毎日わくわくしながら通い続けた。

林間学校からシゲちゃんが帰ってきても、午前中だけは彼らの遊びの誘いに乗らなかった。
「そろそろ宿題やんないとヤバイ。うちの学校ごっそり出るんだ」と言うと、「大変だな」と頷いて、シゲちゃんはそれ以上無理に誘ってこなかった。
このあたりにも、親分としての器量が伺える。
ただ、朝から外に飛び出して行くシゲちゃんが、いきなり帰ってくることはまずなかったけど、念のために「あ、でも気分転換に散歩くらいするかも」と、予防線を張っておくことも怠らなかった。
僕はなんとなく鎮守の森を越えて行く夏休み学校のことを、ほかの人に知られたくなかった。
特にシゲちゃんに知られてしまうと、先生と二人だけの時間をぶち壊しにされてしまいそうで。
先生もシゲちゃんのことを知ってたし、シゲちゃんが鎮守の森の先を『なんにもないよ』と嘘をついたことが、ずっと気になっていたのだった。
朝から遊びに行くシゲちゃんを見送ってから、こっそりと家を抜け出すのだけれど、午後からはきっちりシゲちゃんたちと遊びまわったし、特に怪しまれることはなかったと思う。
問題は妹のヨッちゃんだ。毎朝「どこ行くの」と聞いてくる。
そのたびに「散歩」とか、適当なことを言って追い払うのけれど、家から抜け出すたびに尾行されていないか、途中で何度も振り返らなくてはならなかった。

世界史の講義は、ローマ帝国の興亡からイスラム世界の発展へと移り、先生の作る折り鶴もだんだんと増えて、教室の窓に鈴なりになっていった。
休憩の時間には、僕も習いながら鶴を折った。僕はコツを教えてもらってもヘタクソで、変な鶴ができた。
全体的に歪んでいて、あんまり不格好で悔しいので、せめてもの格好付けに、羽の先をくいっと立てるように折った。戦闘機みたいに。
先生はにこにこと笑いながら、その鶴も飾ってくれた。
朝から雨がぽつぽつと降り始めていたのに、鎮守の森を抜けるとカラッと晴れていたことがあって、先生は僕のその話を聞いたあと、「山だからね」と頷いてから、
「でもあの森って、不思議なことがよくあるのよ。私も子どものころに……」と、怪談じみた話をしてくれたりした。
先生の白い服の短い袖から覗く腕は細くて頼りない。トカイもんの手だ。
先生は僕の知っている先生と比べても若すぎて、まるで近所のお姉ちゃんみたいだった。
でも、そんなお姉ちゃんの口から、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだとか、ハールーン・アッラシードなんて名前がパシパシと出てきて、
それが変にカッコよかったのだった。

 
そして、その日がやってきた。

その日は特に陽射しが強くて、やたらに暑い日で、家で飼っていた犬も地べたにへばりついて、長い舌をしんどそうに出し入れしていた。
それでも僕ら子どもには関係がない。
夏休み学校から帰ってきて昼ご飯をかきこんでから、午後にシゲちゃんたちと合流すると、裏山に作った秘密基地に連れて行かれた。
そして木切れや布で出来た狭い空間に顔を寄せ合うと、シゲちゃんが神妙な顔で言う。
「こいつももう、俺たちの仲間と認めていいんじゃないか」
僕のことだ。これで何度目だろう。
こんなことをシゲちゃんが言い出した時は、決まって『秘密の場所』に連れて行かれる。
それは沢蟹がたくさんとれる場所だったり、野苺が群生している藪だったり、カブト虫がうじゃうじゃいる木だったりした。
みんながうんうんと頷くと、シゲちゃんは目を瞑って、
「今日の夜、カオニュウドウの洞窟へ連れて行こう」と言った。
それを聞いた瞬間、みんなビクッとして急にそわそわし始めた。
そして、「今晩は親戚がくるから」だとか、「家のこと手伝えって言われてるから」なんていう言い訳を並べ立て始めた。
変にプライドが高いタロちゃんがその波に乗れない内に、シゲちゃんがガシっとその首を腕に抱えて、「おまえはくるよな」と言った。
「え、あ、う……うん」と、明らかに狼狽しながらタロちゃんは頷き、しまったーという表情をした。
シゲちゃんは「へん、臆病もんは置いといて、三人で行こうぜ」と言って僕を見る。
たぶん怖いところなんだろうと思ったけれど、面白そうという思いが先に立った僕は、ピースサインなんか作って応えていた。
後で後悔するとも知らずに。

その夜、晩御飯も食べ終わり、もう寝ようかというころに、納屋から懐中電灯を持ち出したシゲちゃんが僕に目配せした後、子ども部屋の電気を消してから、ソロソロと忍び足で縁側を下りた。
庭の垣根のあいだから抜け出すのだ。こんな時間に遊びに行くといっても絶対に怒られる。

どうせ怒られるなら、遊んだ後だ。
前にも夜中にホタルを見に行って、夜明け前に帰ってきて布団に入ったのにしっかりバレていて、次の日、二人しておじさんにゲンコツを喰らったこともあった。
大人に見つからないように、懐中電灯はつけずに田んぼの中の道を歩く。
田舎の夜はとても暗く月も出てなかったので、なんども躓いてこけそうになりながら、僕たちは山へ向かった。

途中、一本杉のところでタロちゃんと合流し、三人になった僕らは、村の外れの小高い山へ分け入っていった。
ヤブ蚊をバチバチ叩きながら草を踏んづけて進むと、だんだんと心細くなってくる。
シゲちゃんとタロちゃんの二人が持ってきた懐中電灯だけが頼りで、昼間きても足がすくみそうな、ほとんど獣道に近い山道を恐る恐る登っていく。
道みち教えてくれたカオニュウドウの話は不気味で、これからそこへ行くのかと思うと、そのままUターンして帰りたくもなったけれど、そのカオニュドウなるものを見たい、という好奇心がわずかに勝っていたのだろう。
『顔入道』は、この村に古くから語り継がれてきた伝承なのだそうだ。

昔、えらいお坊さんが、山の中で木食(もくじき)をしたあと、そのまま山中の洞窟で即身仏になったらしいのだけれど、『入ってきてはならぬ』と言われていたにも関わらず、村の人が即身仏を拝もうとして中に入っていったところ、途中で急に洞窟の天井が崩れてしまい、その先へ行けなくなってしまったのだそうだ。
その洞窟を塞いでいる崩れた岩がまんまるで、まるでふくふくとしていた、生前のそのお坊さんの顔のようだというので、村の人が彼を偲んで岩に絵を描いた。
お坊さんの顔の絵を。
ありがたい即身仏には会えないけれど、その岩に描かれた顔を拝みに、たくさんの村人が洞窟にお参りしたそうだ。
時が経ち、やがてその習慣も絶えて、
一部の物好きだけが時どき興味本位で見に行くだけになったころ、その岩に異変が起こった。
動かないはずの顔の絵が、ある時突然怒りの表情に変わっていたのだという。
それを見た村の若者は、なにか良くないことの起こる前触れではないかと村の仲間に告げたけれど、相手にされなかった。

ところがその年、過酷な日照りが続いて村は飢饉に見舞われ、多くの村人が命を落としてしまった。
いつのまにか元の表情に戻っていた洞窟の顔は、それ以来また村人の畏敬の対象になった。
そして顔入道と呼ばれて、年に数回お祭りとして顔の塗りなおしが行われては、村の吉兆を占なったのだそうだ。

「今でも?」
僕が訊ねるとシゲちゃんは首を振る。
「もうやってない。というか、みんな知らない」と言う。
どうやらその時代も過ぎて、村に人が少なくなった今では、顔入道のお祭りが廃れたどころか、その洞窟自体ほとんど知られていないのだそうだ。
だからこそ『仲間だけの秘密の場所』なのだろう。
「じいちゃんばあちゃん連中でも、あんまり知らないんじゃないかな」とシゲちゃんは言う。
けれど、どこからかその顔入道の噂を聞きつけたシゲちゃんは、春ごろに実際に見に行ったのだそうだ。
タロちゃんたち数人の仲間と。
「どうだった」
ゴクリと唾を飲んだ僕に、シゲちゃんとタロちゃんは顔を見合わせて、
「ホントに岩に顔が描いてた。けど怒ってなかった」と言った。
本当にあるんだ。僕はやっぱりそれが見てみたくなった。
「で、でもさ、今度はさ、怒ってたら、どうする」
タロちゃんが落ち着かない様子で手に持った懐中電灯を揺らす。
シゲちゃんは鼻で笑って、「そんなことあるもんか」と言った。
夜の闇になんの鳥だかわからない鳴き声が時どき響き、僕はそのたびに身体を硬くする。
怯える気持ちを叱咤しながらガサガサと草を掻き分けて、ひたすら懐中電灯の光を追いかけた。

やがて山の中腹あたりで、木々が開けた場所に出る。「あそこだ」とシゲちゃんが光を向けた。
ゴツゴツした岩が転がっているあたりに、少し奥まった洞窟の入り口がひっそりと佇んでいた。
思わず踏み出す足に力が入る。
すぐ前が2メートルくらいの崖になっているので、回り込んで近づく。
入り口の前に立った時、タロちゃんがおずおずと口を開いた。

「なあ、中には入らなくていいだろ」
「なに言ってんだ」
「いいだろ。場所は教えたんだし、あとは中入って真っ直ぐだし」
タロちゃんは本格的にビビってしまっているらしい。
ここまできたのは、当初の目的である僕を顔入道の所へ連れて行くためだとあくまで主張するタロちゃんを、
シゲちゃんが「臆病もん」と非難する。
その怯えように僕まで怖くなってくる。
「ようし、じゃあ俺たちが先に入ってやるから、そこで待ってろ。帰ってきたら今度はお前の番だぞ」
とタロちゃんを睨みつけて、シゲちゃんは僕を促した。
タロちゃんはホッとした顔で「ああ、いいよ」と、妙に強気な口調で返す。
なるほど、タロちゃんからしたら、洞窟の中の顔の表情さえ確認できたら良いのだろう。怒ってさえなければ。
岩に描かれた顔が変わるなんて、そんなことあるわけないと分かっているのに、頭のどこかでそれを想像して、足が動かないのだ。
それは僕もよく分かる。

暗闇に包まれて、ほんの少し奥も見えない洞窟の中。
振り向くと、わずかな星明りの下に四方の山々が、黒い胴体をのっぺりと横にしている。
人間の光なんてここからはなにも見えない。
何百年も前にこの洞窟の奥へと消えたお坊さん。
その人はそれからこの世界に戻ることなく、即身仏になったんだという。
即身仏ってのは、ようするにミイラのことだ。生きたまま断食をし続けて、そのまま死んでしまうってこと。
どんな気分なんだろう。
瞑想をしたままお腹が減りすぎて、だんだんほとんど死んじゃったみたいになってきて、ある瞬間に死の境目を越えてしまう。
その時って、どんな気分だろう。そのことを想像すると、どうしようもなくゾッとしてしまった。
「行こうぜ」とシゲちゃんが僕をつつく。
迷うまもなく、僕はぐいぐいと背中を押されるように洞窟の中へ連れて行かれる。
タロちゃんは本当に入ってこない気のようだ。
足元には小さな石がゴロゴロ転がっていて、足の裏の変な所で踏んでしまうとやけに痛かった。

大人でもなんとか屈まずに通れるくらいの高さの洞窟は、ところどころ曲がりくねっていて、懐中電灯を前に向けていても先はあんまり見通せない。
前を行くシゲちゃんがソロソロと足を進め、その爪先が石を蹴っ飛ばすたびに、僕はその音に驚いて縮み上がった。
二人並んで進むには狭すぎる。奥からはかすかな空気の流れと、カビ臭いような嫌な匂いが漂ってくる。
ドキドキと心臓が鳴る。
「もうすぐだ。ちゃんと歩けよ」と、シゲちゃんが僕を励ます。
僕の目は曲がりくねる暗闇に、ありもしない幻を見ていた。それはヒラヒラとしている。
んん?と思ってじっと見ていると、赤いような灰色のような布が、曲がり角の先に見え隠れしている。
何度角を曲がっても、それはヒラヒラとその先へ消えて行く。
どうしてこんな幻を見るんだろうと、僕はぼんやり考えていた。
その赤い布が着物の裾に見えた時、初めてこれは幻じゃないんじゃないかと思えて怖くなった。
シゲちゃんは見えていないのか、なにも言わない。
でも、それはどうしようもなくヒラヒラしていて、
僕の中では、一体なんなんだと叫びながら走って追いかけたい、という思いと、このまま後退して逃げ出したい気持ちがせめぎあっていた。
ひんやりした夜露が天井からポトリと落ちて、それが足首に跳ねる。
闇の中に僕とシゲちゃんの息遣いだけが流れて、その向こうに赤い着物の裾がヒラヒラと揺らめく。
それはやっぱり現実感が薄くて、
けれど即身仏があいまいな生と死の境をすぅっと越えたように、この洞窟にもどこからかそんな境目があって、それをすぅっと越えた瞬間に、あの幻が現実になって、今度は僕らの存在が薄くなっていくんじゃないかな。
なんてことを色々考える。なんだかくらくらしてきた。
「ついた」
シゲちゃんが足を止める。僕はその肩越しに覗く。
足元を照らしていた懐中電灯を、ゆっくりと上げていく。暗闇の中に白いものが浮かび上がる。
心臓が飛び跳ねた。ゾゾゾッと背筋に悪寒が走る。
白いものは円形の洞窟の断面全体に広がっていて、とおせんぼをするように立ち塞がっている。
丸い岩ががっしりと嵌り込んでいるのだ。こんなに大きいとは思わなかった。
目の前いっぱいにその白いものがどっしりと構えている。

顔だ。
顔入道。生首のように洞窟の奥に詰まっている岩。
人工の光に照らされて、その白い表情が浮かび上がる。
人間のものというには大きすぎるその眉間には皺が寄り、口はへの字に結ばれて、鼻の頭にもヨコに皺が入っている。
そして、その目はぐりんと剥かれて、こちらを凄い迫力で睨んでいる……
叫びそうになった僕を抑えてくれたのは、シゲちゃんの一言だった。
「よかった。まだ怒ってない」
ふっ、と息が漏れる。シゲちゃんの声も震えているけど、力強い言葉だった。
確かに顔は怒りを堪えているように見える。
シゲちゃんは「こないだきた時も、こんなだった」と言って、強張った顔で笑う。
顔入道は良くないことが起こる前触れに、怒りの顔に変わるという。
岩に描かれた顔の表情が変わるなんてあるもんかと思うのとは別に、心のどこかでは、ひょっとしてと怯えざるを得なかったのだけれど、これを見ると、タロちゃんが洞窟に入るのを嫌がった訳がわかる。
昔からそうだったのか、それとも、お祭りとして顔の塗り替えがされていた時に、最後の誰かがこんな風にしてしまったのかは分からないけれど、まるでこれから怒り出す寸前のような顔をしているのだ。
これではもう一度見にこようという勇気はなかなかわかない。
しまった。想像してしまった。僕の膝はぶるぶると震え始める。
今にも顔が変わって怒り出すところを想像してしまったのだ。もういけない。だめだ。
のっぺりした丸い岩に描かれただけの顔がぐわぐわと蠢いて、なにか恐ろしい怒鳴り声を上げる、
そんな想像が頭の中で繰り返しやってくるのだ。
目には炎が宿り、引き結ばれた口は開いて、赤い喉と牙が……
空気はシーンと冷えている。張り詰めたような静けさだった。
対峙する白い顔のすぐ下には尖った石が突き出ていて、その石には白いものがこびりついている。
岩に顔を描いた時の塗料がついてしまったに違いないのだが、その時の僕には、まるで折れた牙のようにしか見えなかった。

僕はシゲちゃんをつつき、「行こうよ」と言った。シゲちゃんも「あ、ああ」と頷いて後ずさりを始める。
だんだんと遠ざかり、顔が曲がり角に隠れて見えなくなるまで、僕らは奥へ懐中電灯を向けたまま目を逸らせなかった。
目を逸らしたとたんに、その怒りが爆発するような気がして。
その顔の向こう、今は誰も行けなくなってしまった洞窟の最深部には、お坊さんの即身仏があるはずだった。
けれどその時は、そんなことまったく頭の外だった。顔だ。顔。顔。顔入道。
曲がり角で顔が見えなくなると僕らは振り向き、早足で元きた道を戻り始めた。
僕が先頭でシゲちゃんがシンガリ。絶対にシンガリはいやだ。
白くて長い手が洞窟の奥から伸びてきて、足首をガシッとつかまれそうで。
でも懐中電灯を持っているのはシゲちゃんだった。
一本道だけれど完全に真っ暗な洞窟だったので、足元を照らさないと危ない。
息を殺しながら緊張して歩いていると、シゲちゃんが懐中電灯を渡してくれた。
ギリギリすれ違うくらいの広さはあったのに、シゲちゃんは明かりをくれた上、シンガリも引き受けてくれたのだ。
親分だった。やっぱり。

なんどか躓きそうになりながらも、ようやく僕らは洞窟の外へ出てこれた。
僕らの姿を見て、タロちゃんがビクッとする。
僕は息を整えながら、なにごともなかったことに安堵していた。
そしてシゲちゃんを振り返り、親指を上げて見せる。シゲちゃんもニッと笑うと、同じように親指を上げた。
これで仲間だ。そう言われた気がした。
「どうだった」とタロちゃんが訊く。
「どうってことない。こないだと一緒」と、シゲちゃんはタロちゃんの背中を叩く。
「トカイもんが入ったんだ、約束通りお前も行けよな」
と言われて、タロちゃんは生唾を飲みながら、こっくりと頷いた。
やっぱり一人で?と言いたげな視線をシゲちゃんに向けながら、
未練がましそうに懐中電灯を一本携えて、タロちゃんは入り口に歩を進める。
可哀相だが仕方がない。シゲちゃんも付いて行ってあげる気はないようだ。

観念したタロちゃんが洞窟の中に一人で消えて行き、僕らは外でじっと待っていた。
そのあいだ、ふとあの赤い着物の幻のことを考える。
洞窟の奥は顔入道が塞いでいて、そこまでの道は枝もない一本道だったし、気がつかずにすれ違うことだって出来ない。
なのに僕らは結局、洞窟の奥ではなにも見なかった。
ということは、やっぱりあれは幻だったんだ。
怖さのせいで見えるはずのないものを見てしまう、というのはたまにあるかも知れないけど、あの洞窟に相応しい幻は、お坊さんの姿のような気がして、
どうしてあんな赤い着物を見てしまったのか分からず、その理由をぼんやりと考えていた。

いきなりだ。
「ギャーッ」という声が洞窟の中から聞こえた。僕らは思わず身構える。
シゲちゃんが懐中電灯を洞窟の奥に向けて、「どうした」と叫ぶ。
かすかな空気の振動があり、奥から誰かが走ってくるのが分かる。
緊張で手のひらに汗が滲む。これからなにか恐ろしいものが飛び出してくる気がして、足が竦みそうになる。
シゲちゃんがゆっくりと洞窟の中に入ろうとする。
僕はそれを遠くから見ていると、暗闇の中から揺れる光が見えて、次の瞬間なにかがシゲちゃんを弾き飛ばし、僕の方へ向かって突っ込んできた。
慌てて身体を捻ってそれを避ける。
その後ろ姿に、あ、タロちゃんだ、と思うまもなく、それは目の前の崖で止まり切れずに、足を滑らせて転がり落ちて行った。
悲鳴が遠ざかって行き、すぐに身体を立て直したシゲちゃんが崖に駆け寄る。
すぐに転がる音は止まったけれど、ちょっとした高さだ。ただでは済まないだろう。
けれど、その下から泣き声が聞こえてきたので僕はホッとした。
シゲちゃんが「待ってろ」と言って、崖を回り込んで助けに行く。
僕も追いかけようとして、ギクッと背後を振り返る。
洞窟の口がさっきと同じように開いていて、その奥にはなにごともなかったかのように、暗く静かな闇があるだけだ。
でもタロちゃんは、なにかに怯えて逃げてきた。そして勢いあまって崖へ。
僕はガクガクと全身が震え始め、なんとか視線を洞窟から逸らし、そこから逃げるようにシゲちゃんを追いかけた。

全身を強く打ったタロちゃんをシゲちゃんが担いで、僕らは必死に山を降りた。
公衆電話の置いてある所までたどり着くと、そこから救急車を呼んだ。
深夜だったけれど、シゲちゃんの家とタロちゃんの家にそれぞれ連絡が行き、僕らはこっぴどく叱られて、病院に駆けつけたタロちゃんの家族に謝ったり、事情を聞かれたりして、家に帰って布団に入ったのは明け方近くだった。
興奮していたけれど、よほど疲れていたのか僕は泥のように眠った。

昼ごろに目が覚めてから、布団の上に身体を起こした。
昼に起きるなんてめったにないことで、やっぱり朝とは違う感じがして、寝起きの清清しさはない。
僕は昨日の夜にあったことを思い出そうとする。
あの顔入道の洞窟で、僕とシゲちゃんは怒りを堪えているような顔を見た。
そして、入れ替わりに入っていったタロちゃんが、悲鳴を上げて飛び出てきて、勢いあまって崖から落ちた。
幸い怪我は思ったほど大したことがなく、右肩の骨にちょっとヒビが入ってるけど、あとは打撲だそうで、しばらく入院したら戻ってこられるとのことだった。
だけど、僕には気になることがあった。
痛がって呻くタロちゃんをシゲちゃんが担いで山を降りていた時、タロちゃんが繰り返し変なことを呟いていたのだ。
怒った。顔入道が怒った。
そんなことをうわ言のように繰り返していたのだ。
それを聞いた時の僕は、とにかくあの洞窟から早く遠ざかりたくてたまらなかった。
今にも巨大な顔が、憤怒の表情で闇の中を追いかけてきそうな気がして。
夜が明けて冷静になった今振り返ると、不思議なことだと思う。
あの洞窟は一本道で、ほかの場所には通じてないはずなのだ。
僕とシゲちゃんが顔を見てから、タロちゃんが入れ替わりに洞窟に入って行くまで、ほとんど時間は経ってないし、僕とシゲちゃんが外で待っているあいだ、当然ほかの誰も入ってはいない。
だからタロちゃんは一人で洞窟に入り、行き止まりの場所で顔入道を見てから、戻ってきただけのはずなのだ。
僕らが見た時には怒っていなかった顔入道が、タロちゃんの時には怒っていたなんて、そんなことあるはずがない。
考えてもよくわからない。タロちゃんは一体なにを見たのだろう。
聞いてみたいけれど、今は隣町の病院だ。そんな変なことを聞きに行けない。

 
「起きたか」
考え込んでいると、おじさんがやってきて「飯を食え」と言う。
シゲちゃんも起きてきて一緒に食べていると、おじさんにもう一度昨日のことを聞かれた。
「どうして夜にあんな山に登ったのか」と。
半分はお説教だ。僕らは口裏を合わせるように、顔入道のことは言わなかった。
そうだろう。秘密を守るのは仲間の証なのだから。
ただ探検したかった。もうしない。ごめんなさい。そんなことを何度となく繰り返して、乗り切るしかなかった。

昼ご飯を食べ終わると、じいちゃんの部屋に呼ばれた。
僕とシゲちゃんは正座をさせられて、じいちゃんの険しい目にじっと見つめられる。
お説教なら別々にせずに一度にしてくれよ、と思いながら俯いていた。
「顔入道さんだな」と、じいちゃんは言った。
僕は驚いて顔を上げる。じいちゃんは顔入道のことを知っていたらしい。
「わしらも子どもの時分に、見に行ったものだが」と、眉間に皺を寄せた。
そして、「あれは、おそろしいものだ」と呟く。
どうやらじいちゃんの子どものころにも、顔入道が怒ったことがあるらしい。
その時にはなにか大変なことが村に起こったそうだが、詳しくは教えてくれなかった。
顔入道さんにはもう近づいてはならないときつく厳命されて、僕らは釈放された。
さすがにシゲちゃんもしょげかえっていて、元気がなかった。
竹ヤブ人形事件の時よりも、大ごとになってしまったからだ。
次のイタズラを思いついて目の奥がぴかりとするのは、まだ先のことだろうと僕は思った。

その日は結局、夏休み学校には行けなかった。午前中を寝て過ごしてしまったのだから仕方がない。
僕は昨日あったことを先生に聞いてほしかった。こんな不思議なことが世の中にあるんだということを。
けれど同時にこうも思う。
先生ならこの出来事に、僕には思いもつかなかったような答えを見つけ出してくれるんじゃないかと。

前に一度、午後にもあの学校に様子を見に行ったことがあるけれど、先生はいなかった。
お母さんにつきそって、病院にでも行っているのかも知れない。
時間がゆったりと流れる夏の家の中で、早く明日にならないかと僕はやきもきしていた。
シゲちゃんはその後、元気がないなりにどこかに遊びに行ってしまったが、僕はそんな気になれず、家で宿題をぽつぽつと進めていた。
けれどだんだんと心の中にある欲求がわいてきて、それが大きくなり始めた。
昼間なら、あんまり怖くないよな。
そんなことを思ってしまったのだ。つまり顔入道を、タロちゃんが見たものを確かめに行こうというのだ。
さすがにこれは悩んだ。じいちゃんに『あれは、おそろしいものだ』なんて言われたばかりなのだ。
でも、見たかった。知りたかった。
タロちゃんは一体なにを見たのか。
一度逃げ出した場所にもう一回挑戦することで、手に入るものもある。
例えば、鎮守の森の奥に進むことで先生に会えたようにだ。
バシン、とノートを閉じた。ようし、やってやる。
僕は立ち上がった。

夜と昼間では山道の印象が違っていて、何度も迷いそうになりながらも、僕はなんとか顔入道の洞窟にたどりついた。
ぜえぜえと息が切れる。昨日の夜よりしんどいのは、太陽の光が木の枝越しに凶暴に降り注いでいるからだろう。
樹木が開け、山肌が見える場所で僕は額をぬぐう。
小さな崖になっている場所が見える。昨日タロちゃんが飛び出して落っこちた所だ。
タロちゃんがゴロゴロと転がって、身体ごとぶつかって止まった岩もその先にある。
そのどっしりした岩の形を見ていると、今さらながらゾッとする。
タロちゃんはそんなにまで怯えて、いったいなにから逃げたかったのだろう。
昼間でも暗い口を開けて洞窟が僕の目の前にあった。
覚悟を決めていてもドキドキしてくる。
顔入道は怒っているかも知れない。それがどんな顔なのかあれこれ想像する。
今のうちに最悪の事態を想定しておけば、ビビって崖から落っこちたりはしないだろう。

あらゆる怒りの表情を十分にイメージしてから、僕は深呼吸を五回した。
五回した後でもう三回して、それからもう後四回くらいしてから、洞窟に足を踏み入れた。
太陽の光が届かないので中はひんやりしている。
外の熱気が追いかけてくるけれど、それも何度か角を曲がると去って行ってしまった。
リュックサックから懐中電灯を取り出す。
シゲちゃんが昨日持ち出したやつが見あたらなかったので、押入で見つけたもう一回り小さいやつだ。
心細いような光の筋が目の前を照らすけれど、洞窟の中はぐねぐねと折れ曲がっているので見通しが悪く、いつ曲がり角の向こうに、なにか恐いものが飛び出してくるか分からない。
首筋のあたりをぞわぞわさせながら、僕は洞窟の奥へと進んでいく。
『岩でできた顔が怒り出すなんてあるわけない』
そんな考えが浮かぶたびに、
『いや、この世ではなにが起こるか分からない』と気を引き締める。
そう。なにが起こるか分からないのだ。

隠れたような枝道がないか慎重に探りながら、僕は深く深く洞窟へ潜って行った。
そしてどこか見覚えがある曲がり角を回った時、目の前に白いものが飛び込んできた。
ビクゥッ、と背中が伸びる。
顔だ。顔入道。
昨日と同じように洞窟にみっしりとはまり込んで、とおせんぼをしているその白い顔を見た瞬間、僕は恐怖というよりも吐き気を催した。
なんだこれは?
あれほどイメージトレーニングを繰り返したにも関わらず、まったく想像していなかった不気味な姿がそこにあった。
足下から天井まで伸びる巨大な顔は、笑っていたのだ。
目を細め、口元の皺は縦に真っ直ぐではなく、横にふっくらと広がっている。
ほっぺたは丸々として、口の端は優しげに上がっている。
これこそが、この洞窟の先で即身仏になっているというお坊さんの、普段の顔だったのだろうか。
けれどそのえびす顔がもたらす印象は、吐き気を催すような奇怪さだった。
僕とシゲちゃんは二人でここまできて、『怒りをこらえる顔』に会った。
そして、その後入れ替わりにタロちゃんは一人でここまできて、『怒った顔』に会ったという。
そして次の日の昼、今僕は笑っている顔と向かい合っている。

これはいったいなんなのだろう。
足がガクガクと震える。目の前で白い顔が、ぐにゃぐにゃと飴のように形を変えていくような錯覚がある。
……でもそれは本当に錯覚だろうか。
僕は泣きそうになりながらも、『これだけはする』と決めていた確認作業を断行した。
生唾を飲みながら、震える足を叱咤して少しずつ顔に近づいていく。
顔が大きくなっていくにつれ、この狭い空間が、この世から切り離された異空間のような気がしてくる。
どんなことが起こっても不思議ではないような。
それでも僕は自分の顔を突き出し、顔入道の表面に光をあてる。
よく見ると、ところどころボロボロと塗装が剥げ、白い顔にも黒い汚れが目立った。
その地肌は確かに岩で、その上に描かれた顔は、昨日今日のものではないのは明らかだった。
何年も、いや何十年も前から同じ顔で、ここにこうして洞窟に挟まっているはずのものだった。
顔の真下には、折れた歯のような塗料のついた尖った岩。
笑っていても、ついさっきまで牙のあった証のように青白く光っている。
僕は今までとは違う別の寒気に襲われ、とっさに逃げ出した。くるりと振り返って、きた道をひたすら戻る。
うわあ、という叫び声を上げたと思う。ギャー、だったかも知れない。
とにかく、僕は何度も転けそうになりながら走り続けた。
白い手が追いかけてくる幻想が、昨日よりもくっきりと頭に浮かんだ。恐い。恐い。なんだこれ。なんだこれ。
それでも、射し込む太陽の光が道の先に見えた瞬間にブレーキをかけた。
洞窟の外まで飛び出した僕は、崖の前でピタリと止まることができた。
昼間だったから良かったのだ。
夜だったら、洞窟の続きのような暗い空の下に、両手両足を泳がせていたかも知れない。
背中に異様な気配を感じる。ハッと振り返ると、洞窟の奥に赤い着物の裾が翻ったような気がした。
それはすぐに記憶の彼方へ消えて、現実だったのか幻だったのかわからなくなってしまう。
僕はガチガチと震えながら、洞窟の入り口から中へ小声で問いかけた。
「誰かいるの」

いるはずはなかった。中は一本道なのだ。行き止まりにはあの顔入道の岩がつっかえている。
がっしりと地面にも壁にも天井にも食い込んでいて、とても動きそうには見えなかった。
だから洞窟の途中に誰もいなかったからと言って、その岩の奥に誰かが隠れているはずはない。
こういうのをなんて言うんだっけ。こないだテレビでやっていた。そう。密室。密室だ。
密室の中には、生きたままミイラになったお坊さんがいるはずだ。
真っ暗闇の中で座禅を組み、もう二度と変わらない表情を顔に貼り付けたままで。
その顔は怒っているのだろうか。笑っているのだろうか。
ああっ。
なんだかたまらなくなり、僕は逃げ出した。
崖を回り込み、山道を駆け下りる。振り返らずに。汗を飛び散らせて。
ぜいぜい言いながらひたすら走り続けていると、頭が勝手に想像し始める。
顔入道が怒ったら、悪いことが起きる。
じいちゃんが『あれはおそろしいものだ』と言っていた。本当なのかも知れない。
ひょっとして、タロちゃんが崖から落ちたのだって、その『悪いこと』に入っているのかも知れない。
目に見えない手が、崖の前でその背中を押したのかも知れない。
でもさっき見た顔入道は笑っていた。
けれど、それがなにか楽しいことを暗示しているような気がしない。
いつもは誰もこないはずの暗い洞窟の奥底で、どうして笑っていたのだろう。
想像が顔入道の笑顔を大げさに変形させ、視界一杯に、いや頭の中一杯に広がって行く。
その奇怪な姿を僕は振り払おうと振り払おうと、木の根を飛び越えながら駆け続けた。

その夜、晩ご飯を食べている時におじさんから、タロちゃんが三,四日後には退院できるらしいと伝えられた。
僕もホッとしたけれど、首謀者であり親分でもあるシゲちゃんが一番ホッとした顔をしていた。

食べ終わってから僕はシゲちゃんに、顔入道の洞窟にもう一度行ったことを話そうと思ったけれど、
「疲れたからもう寝る」と言って、あっというまに布団に入られてしまった。
僕はどういうわけか、顔入道の笑顔のことをほかの人に話すのが妙に恐い気がしたので、
「寝ちゃったからしかたないや」と自分に言い訳をしながら、居間でテレビを見ることにした。
ブラウン管の向こう側ではプロレス中継をやっていた。
恐い顔の外国人レスラーがマットの中や外で大暴れしていたけれど、
刻一刻とその表情は変わり、どの瞬間にも同じ顔はなかった。
睨む顔、強がる顔、痛がる顔、笑う顔、吠える顔。
繕い物をしているばあちゃんと並んで、僕はテレビの前にずっと座っていた。

次の日、少し元気になったシゲちゃんが、朝から外へ遊びに行ったのを見送ってから、僕は夏休み学校へ行く準備を始めた。
先生にどうやって洞窟のことを話そうか考えながら、一応宿題をやるふりをしていると、ばあちゃんがハタキを持って部屋に入ってきた。
パタパタと家具や壁を叩いて回り、ちょっと重い物をどかす時に「エッヘ」と言いながら、小一時間ハタキをかけていた。
僕は早く出て行きたかったけれど、なんとなくタイミングを失って、どんどん埃っぽくなっていく部屋の中でイライラしていた。
すると、一通りハタキを掛け終わったのか、ばあちゃんが腰を叩きながら目の前に立つと、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
そして、「あんた、つかれちょらんか」と言った。
この二,三日のあいだは、確かに色々あって疲れている。
それでもタロちゃんがすぐ退院できると分かったし、昨日会えなかった先生に早く会いたかった。
会って話をしたかった。
僕は「別に」と言って立ち上がり、「散歩してくる」とばあちゃんを残して部屋を出た。
外はあいかわらずカンカンと日が照っていて、半そでから伸びる腕の何重にもなった日焼けの跡が疼いた。

顔見知りのおばさんとすれ違って、「おはようございます」なんて挨拶しながら、
なんにもない道をてくてく歩いていると、なんだか足が重いような気がする。
やっぱり疲れてるな。朝ご飯もお茶碗一杯しか食べられなかったし。
それでも僕の足は素晴らしく早く動いた。入道雲が北の山の稜線に大きな影を落としている、その先を目指して。

アッバース朝や後ウマイヤ朝、ファーティマ朝など分裂・建国を繰り返したイスラム国家は、トルコやイベリア半島、北インドなどに確実に勢力を伸ばしていった。
その中で、ローマ帝国の後継者ビザンツ帝国の領土に侵攻したセルジューク朝は、キリスト教の聖地エルサレムまでも圧迫したので、ローマ教皇の号令の下に、ついに西方諸国が腰を上げ十字軍が結成された。
成功に終わった第一回遠征の後も十字軍は、トルコ人やエジプトのサラディンなど相手を変えながら、第二、第三、第四と続いて結局第七回くらいまでいったらしいけれど、イスラム勢力との決着はつかなかった。
それはそうだろう。
今だってターバンを巻いたりスカーフをしたりして、『インシュアラー』なんて言っている人がたくさんいる所を、テレビで見るんだから。
みんなやられちゃったはずはない。
あの人たちが、先生から教えてもらう歴史の先にいるのだ。
そう思うと、先生の口から語られる遠い世界の出来事も、けっしてファンタジーの世界の物語ではなく、この僕の生きている今に繋がっているのだと実感する。
凄いことが起きたら、その凄いことが今の人間の社会のどこかに影響している。
だから僕はほかの科目にはないくらい、ハラハラドキドキしながら先生の授業を受けた。
漢字がたくさん出てくる中国の歴史は、さわりだけで勘弁してもらったけれど。

「で、どうしたの」
世界史の講義が終わった休み時間、洞窟であったことをどう話そうか悩んでいる最中に、先生の方から訊いてきた。
おかげで僕は、ビビって逃げたことを上手くごまかせずに、全部話してしまった。
かっこ悪いな。ゲンメツしたかな。

先生は窓際のいつもの席に腰掛けて、真剣な顔をして聞いている。
花柄の白い服が、射し込む太陽の光を反射してキラキラ輝いて見えた。
今朝、先生は昨日僕がこなかったことを怒りもせずに、いつもの笑顔で二階の窓から校庭の僕に手を振ってくれた。
今日もだけど、昨日もほかの子はこなかったらしいから、きっと先生は、午前中ずっと教室で僕を待っていたはずなのだ。
二階の窓際で頬杖をついて、ぼうっと校庭を見ながら。それを思うと、僕は胸が痛くなる。
先生みたいな若くてきれいで頭が良くて優しい人が、こんな誰もこない山の中で、じっと僕みたいなただの子どもを待ってるなんて。
先生は言わないけれど、きっと東京でしたいことがあったんだろう。好きな人だっていたかも知れない。
そんなものを全部捨ててこの田舎へ帰ってきて、夏のあいだずっとこんなオンボロの学校で、たった数人の生徒を毎日待っているのだ。
僕が算数の問題を解いているあいだ、時どき先生は窓の外を見ながらぼんやりしている。
そんな時、先生はそこにいるのに、そこにいないような感じがする。
その横顔を覗き見するたびに、僕はなんだか悲しくなるのだった。
「そんなことがあったの」
先生は顎の先に折り曲げた人差し指をあてて頷いた。
「顔入道さんのことは聞いたことがあるわ。
 わたしが子どものころにも、男の子なんかは肝試しに行っていたみたいね。
 わたしは見たことないけど、不思議な話ね」
先生はそう呟いて、あのぼんやりした表情を一瞬だけ見せた。
僕は何故か慌てて、「こんなことってあると思う?」と問いかけた。
先生は我に返ったように目を大きく開くと、
「この世の中は不思議なことだらけよ。
 とくにこんな田舎にはね、生活のすぐそばにおかしな迷信や言い伝えがあるの。
 学校で習う物理や算数よりもずっと近くに。
 私も都会の生活が長くなっていくにつれて、忘れそうになっていたけど」
先生がふっと息をつくと、外はうるさいくらいジワジワジワジワ蝉が鳴いていたのに、教室の中は変にシーンとした。

ただの岩が怒ったり笑ったりするのも、学校では習わない不思議な力が働いているからだろうか。
ただの森を、鎮守の森なんて呼んで神社を建てるのも? 
お仕置きをするため、暗く狭い場所へ僕を押し込める父親の顔と、
暗闇でひとりになった後で、誰かがいつのまにか背後にいるような、あの振り向けない感じが頭の中をよぎった。
「でも理科や算数を教える先生としては、それで終わりってわけにはいかないわね」
その時、僕が感じたことをなんて言えばいいんだろう。
先生はゆっくりと立ち上がり、僕のまだ知らないことを楽しく、そして優しく教えてくれるあの素敵な表情をした。
僕をどうしようもなくワクワクさせてくれる大好きな顔だ。
先生は教壇に立ってチョークを握り、黒板にスッスッと手を走らせる。
その指が描き出す白くて涼しげな線を、僕は息をするのも忘れてじっと見つめていた。

先生は手にチョークを持ったまま口を開く。
「あなたは一昨日の夜、まずシゲちゃんと一緒に二人で洞窟に入った」
黒板には洞窟の絵と、丸と線だけの人間が二人描かれている。その上には①というマーク。
「一本道の洞窟の奥には顔入道の岩があって、お坊さんのミイラがあるというその先には行けなかった。
 二人は怒り出す寸前みたいな顔を見てから、入り口へ戻った」
行って戻った矢印が洞窟の中に描かれる。そして『怒る前』と走り書き。
「その後、タロちゃんが入れ替わりに一人で洞窟に入って行った」
②として、もう一人の丸と線だけの人間。
「洞窟の中から悲鳴が聞こえて、タロちゃんが走って出てきた。そして勢いあまって崖から落ちた」
矢印が洞窟の出口から先へ曲がって落ちた。
「タロちゃんが言うには、『顔入道が怒った』」
②の矢印が洞窟の奥でUターンする場所に『怒った後』という文字。
「次の日、つまり昨日の昼間、あなたはもう一度洞窟に行った。今度は一人で」
③だ。
「その時ちゃんと確認したけれど、洞窟は一本道で、枝分かれや人が隠れるような場所はなかった。そうね?」
頷く。
「洞窟の奥には顔入道の岩があったけれど、今度は笑っていた」
先生は③の矢印の先に『笑う』と書いた。
そうだ。顔入道は笑っていた。
昼間なのに懐中電灯の光なしでは真っ暗闇になってしまう洞窟の最深部で、白い顔と向かい合った、この世のものとは思えない光景を思い出し、背筋が寒くなる。
「やっぱりその時確認したけれど、岩に顔を描いた塗料は古くて、とても昨日や今日に塗り替えたようには見えなかった。
 そうだったわね」
頷く。
先生はチョークを振り上げ、『笑う』の上に『古い』と書いた。
そして『怒る前』と『怒った後』の上には、『古い?』とクエスチョンマークつきで書いた。
先生はくるりと振り返り、ニッと右の眉毛と口の端を上げた。
「一昨日の夜の顔入道には、近寄って確認はしていないわね」

言われてみればそうだ。
でもその後、本当に岩が怒ったり笑ったりするなんてその時は思ってもみないのだから、仕方がないじゃないか。
「その顔入道のすぐ下に、白い塗料がついた岩が突き出ていたのよね。
 あなたが抜け落ちた牙みたいだと思ったその岩。その塗料も古かったかしら」
え?そう言えば確認していない。顔と同じ塗料だとばかり思っていたから。
「じゃあ、最近塗り替えた時についたものかも知れない」
塗り替えだって。やっぱり先生は顔が怒ったり笑ったりしたのは、誰かが岩を塗り替えていたと言うのだろうか。
「ううん。昨日あなたが確認した時には古い塗料が使われていた。
 だから、その前に岩の塗り替えなんて行われていなかったってことは間違いない。
 それに、あなたとシゲちゃんが出てきた後で、
 タロちゃんが一人で入って行くまでのあいだに、誰かが塗り替えるなんて出来っこないでしょ。
 入り口は一つしかないし、隠れられる場所もない。その入り口もあなたたちが見張ってたんだから」
そうだよ。その通りだけど、だったらどうして顔は怒ったんだ?
「答えは一つよ。算数みたいに。一昨日、あなたがシゲちゃんと一緒に見た顔は、岩に描かれたものではなかった」
ガンッと殴られたようなショックがあった。
確かに、二度目の時みたいに顔を近づけて見ていない。
洞窟に入るまでに岩に描かれたものだと教えられていたから、素直にそう思っていた。
それが白く塗られたハリボテだったというんだろうか。
でも待てよ。それがハリボテだったとしても、どうして顔が変わるんだ?
「ここで思い出して欲しいのは、
 一昨日の昼間に、あなたたちが秘密基地に集まって、顔入道の洞窟に行こうって話をした時のこと」
先生はいたずらっぽい顔をして、僕を試すように見つめてきた。
思い出せ。
あの時シゲちゃんが、『こいつももう俺たちの仲間と認めていいんじゃないか』なんて言い出して、僕をその晩に、顔入道の洞窟に連れて行こうとした。

そしたらみんな怖がって、いろいろ言い訳して逃げた。
そして怖がりだと思われたくないタロちゃんがモタモタしているうちに、シゲちゃんに捕まってしまったのだ。
ピン、ときた。僕の頭がなにかを閃いた。それがどこかへ行ってしまわないように、必死で考えをまとめる。
あの夜。山奥の洞窟には、僕とシゲちゃんとタロちゃんの三人しかいなかったはずだ。
あんな場所に夜中、ほかの誰もくるはずがない。
でもだ。僕ら三人がその夜、あそこにくることを知っていたやつらがいる。
怖がって『行かない』と言ったほかの連中だ。
そして顔入道のハリボテ。
わかった!
ハリボテの後ろ側に初めから隠れていたんだ。僕らが洞窟に入る前から!
あんな所に誰かが待ち構えているなんて思ってもみなかった。
だけど、あいつらならそれが出来る。僕らがくることを知っていたんだから。
『怒る前』のハリボテの後ろに隠れて、僕とシゲちゃんをやり過ごし、
その後に入ったタロちゃんがやってくる前に、もう一つ用意していたハリボテと入れ替えて、『怒った後』にしたのだ。
ひょっとしたら、丸いハリボテの両面に顔を描いていて、くるりと裏返しただけなのかも知れない。
そして、岩に描かれているはずの顔が怒ったことに驚いたタロちゃんが悲鳴を上げる。
僕らが怪我をしたタロちゃんを担いで山を下りた後で、ハリボテごと撤収する……
くそう。誰がやったんだ、こんなイタズラを。
タカちゃんか、トシボウか、ユースケか、それともカッチンか。
ひょっとしたら二人、ううん、あの秘密基地にいた全員かも知れない。
卑怯なやつらだ。ブッコロしてやる。シゲちゃんにもチクッて、二人で仕返ししてやる。
そんなことを僕が感情に任せて喋るのを、先生はじっと聞いていたけれど、ふいにその顔色が変わった。
「ちょっと待ちなさい。今なんて言ったの」
いつもは穏やかな顔をしている先生の頬が、緊張しているのが分かる。
目が見開かれて、白目が大きくなる。眉毛が吊りあがる。
その言葉は質問しているのではない。こちらの答えなんてどうでもいい。そんな爆発前の確認の儀式だ。

「なんて言ったの」
その声はキリキリと軋むように尖っている。
「あ、いや、えと」
いきなりの思ってもいなかった展開に僕は足が震えてきた。
これからどうなるか分かるのだ。うちの担任の先生と同じだ。
僕はこの時間が一番嫌だ。なにか悪いことをして怒鳴られるのはしょっちゅうだけど、怒鳴る前の『溜め』の時間。
固まったように動けなくなる時間が僕には一番怖かった。
なんでだろう。『ブッコロしてやる』がまずかったのか。
それとも、自分でも気づかないようなヘマをしたのだろうか。
出会ってからあんまり経っていないのに、
訳知り顔で『優しい先生』だなんて勝手に思って、喜んでいたのがバカみたいだ。
一体なにが先生を怒らせたのだろう。
そんなことを、やがてくる溜め込んだ怒りの爆発をただ待つ身の僕は考え、
その睨みつけてくる恐ろしい視線に耐え切れず、思わず目を瞑ってしまった。
「あなた自分がなにを言ったのか分かってるの」
押し殺したような声が、ぐっと近づいてくる。
あ、ひっぱたかれる。
そう思った瞬間だ。
僕の頬っぺたに柔らかいものが触れた。ぐにっと頬肉が左右に引っ張られる。
僕は驚いて目を開けた。その目の前に、ニコッと笑う先生の優しい顔があった。
「ごめんね。怒られると思った?」
こんなに近くで見るのは始めてだったけど、
前髪を短く揃えたその顔は、すんなりと伸びた長い首の上にかわいく乗っていて、
僕よりずっと年上だと思っていたのに、その時はほんの少し年上の女の子のように見えた。
そのせいで胸がドキドキする。怒られると思った緊張も混ざっていたかも知れないけれど。
「あなたが勘違いをしていたから、分かりやすく教えてあげようと思っただけなの」
先生はよく分からないことを言いながら、スッと僕のそばを離れて教壇に戻って行った。

「あなたとシゲちゃんが最初に見た顔入道は、岩に描かれたものではなかったけれど、
 あなたが思ったようなハリボテでもなかった。
 確かに、ハリボテが本物の顔入道の手前にあったなら、
 誰も隠れる場所なんてなかったはずの洞窟に、秘密の空間が出来ることになる。
 そこに誰かが隠れていて、タロちゃんがやってくる前にハリボテを入れ替えれば、
 あっと言うまに顔入道が怒ったってことになるわよね。
 でも良く考えて。どうしてその誰かは、後からタロちゃんがくるなんて知ってたの?」
ハッとした。
そうだ。タロちゃんは急に怖気づいて、僕らが入った後に入るなんてことになったけど、
それでも無理やりシゲちゃんが連れて行ってたら、三人とも始めの『怒る前』の顔を見ていたことになる。
そうなれば、いくらなんでも僕らの目の前で、ハリボテの早がわりなんて芸当が出来るはずはないし、そのまま帰られたら、せっかくのイタズラの仕掛けもパァだ。
口ぶりからすると、シゲちゃんもタロちゃんも、それから、たぶんほかのみんなも、一度は顔入道を見ているはずだから、なにも顔の早がわりなんてことをしなくても、初めから怒った顔のハリボテを用意していれば、最初に見た瞬間に『顔入道が怒った。うわあぁ』ってことになるはずなのだ。
「そうね。それにあなたが見た、白い牙のような塗料のついた岩が、重要なヒントになってるのよ」
先生はもったいぶったように、ゆっくりと人差し指を立てる。
「塗料のついた尖った岩は、顔入道の岩の真下にあったのよね」
あ、と思った。
「だから抜け落ちた牙のように見えた。それも、一昨日昨日と二回見た、その両方とも同じことを思ったのよね。
 ということは、塗料のついた岩と、顔入道の位置は変わってないってこと。
 ここまで言えばもう分かったかな。
 つまり、顔入道の岩の手前にハリボテなんか作って、そのあいだに人間が隠れたりしたら、
 絶対にその真下の塗料のついた岩も隠れちゃうんだから……」
だから、ハリボテはなかった。

そんな結論が、先生の口からスラスラと出てくる。
そのこと自体に納得はいったけれど、全然事件の解決にはなっていない。
それどころか、余計に薄気味悪くなってくる。
それじゃあ顔入道は、やっぱり勝手に怒ったり笑ったりしたってことじゃないか。
僕がぶつぶつとそう言うと、先生はうふっと笑った。
「その通りよ」
ええっ、と思わず力が抜けそうになった。そんなバカな。
「正しく言うと、顔入道は勝手に怒ったけれど、勝手には笑わなかった」
なんだか謎掛けのようなことを言いながら、先生はチョークを手に持つ。
そして黒板に描かれたのマークのついた『怒る前』の文字のお尻に、『?』の文字を書き加えた。
それからこちらに振り向く。
「さっき、私に怒られそうになったでしょう?」
うんうんと頷く。なんだか楽しくなってきた。これからもっと不思議なことが起こりそうな予感がして。
「あれはお芝居だったけど、あなたはなんだか分からないうちに怒られそうになって、
 目なんか瞑っちゃって、観念してたわよね」
恥ずかしくて、思わずカァーっと顔が赤くなりそうになった。
「これから怒るってことは、もう怒ってるってことよ」
そりゃあそうだ。大人が怒る時なんて、大体パターンが決まってるんだから。
目を吊り上げちゃって、僕らが答えられないようなことを問い詰めてきて、
それから怒鳴りつけたり、引っ叩いたりするんだ。
本気で怒り出す前に、これからどうなるかくらい分かる。
あれ?てことは、なにか変だぞ。
先生はクスクスと肩を揺すった後、イタズラっぽく僕の方に向き直った。
「あなたが最初に見た『怒る前』の顔。それは、本当は『怒ってる顔』じゃなかったの?」
ハッとした。
怒る前ってことは、怒ってるってこと。そうだ。怒りをこらえてるってことは、怒ってるってことだ。
ただ爆発する前か後かってだけで。
「でも、おかしいよ。タロちゃんも前にいっぺん見てるはずなのに、『顔が怒った』なんて言って逃げてきたんだよ」

「そうね。だからその時タロちゃんが見た顔は、前に見た顔と違ってたのは確かだわ。
 タロちゃんが前に見た顔っていうのが、あなたが昨日一人で見た、本当の顔入道の顔だったはずよ。
 笑っていた顔が今度は怒ってたんだもん。それはビックリするよね」
え?ってことは、どういうことになるんだ。
首を傾げる僕に、先生は噛んで含めるように語り掛ける。
「言ったでしょ。あなたが最初に見た顔は、岩に描かれたものじゃなかったって。
 かと言って、人が後ろに隠れられるハリボテでもない。
 白い塗料のついた尖った岩という、同じ目印があるんだから、場所が違っていたわけでもない。
 ……たぶん、厚手の紙を顔入道の岩に被せて、その上から白い塗料で別の顔を描いたのよ。
 笑っている顔の上に、怒ってる顔を」
その真下の尖った岩の塗料は、その時についたのね。
先生は僕の目を見ながら、確かめるようにゆっくりと言う。
確かに、それならほとんどかさばらないから、抜け落ちた牙のように見えた白い岩との位置も変わらない。
でも、それでは人間も隠れられなくなってしまう。
「誰かが隠れる必要なんてないのよ。顔は勝手に変わったんだから。『怒る前』から『怒った後』に。
 さっき言ったみたいに、『怒る前』の顔と『怒った後』の顔は全く同じものなのよ。
 ただ、それを見ていた人間の心理が違っていただけ」
ドキドキしてきた。だんだんと先生の言いたいことが分かってきたからだ。でも、そんな。そんなことって。
「あなたが始めにその顔を見た時、
 眉間に皺を寄せて、口なんかへの字に曲がって、迫力満点で睨みつけてくる、その表情に驚いたんでしょ。
 さっき私がそんな顔をした時、あなたは怒られると観念した。
 なのに顔入道の時は、その顔は怒っていないと思ってしまった。
 さあ、それはどうして?」
その答えは分かる。今思い出した。あの時の言葉を。叫びそうになった僕を勇気づけてくれたその言葉。
『よかった。まだ怒ってない』
シゲちゃんだ。僕の隣で、あの時確かにそう言った。
シゲちゃんが、この顔入道の事件の犯人だったんだ。

僕の中ですべてが繋がって行く。先生は静かな口調でその手助けをしてくれた。
「最初からシゲちゃんのイタズラ計画だったのよ。
 それも、本当は臆病なのに、口ばっかり強がりなタロちゃんを標的にした。
 私が秘密基地の話を思い出してと言ったのは、
 顔入道をその晩に見に行こうなんて言い出したのが、シゲちゃんだったってことを思い出して欲しかったの。
 あなたは変な勘違いをしたみたいだけど」
僕は椅子に座り込んで、じっと先生の説明を聞いていた。
春ごろに顔入道の噂を聞いて見に行った悪ガキ仲間は、洞窟の奥で笑っている顔を見た。
そして、イタズラ好きでしかも手先の器用なシゲちゃんが、その顔を怒らせることを思いつく。
紙を貼り付けて、その上からペンキかなにかで顔を描き、その準備が終わった後に、
新入りの僕を連れて行くという名目でみんなを誘う。
標的は生意気なタロちゃんなのだから、ほかの臆病者たちが逃げても構わない。
むしろ大勢で行ってしまう方が、みんな変に気が強くなってしまって、マジマジと見られて、細工がバレてしまう可能性があったのだから好都合だ。
首尾よく三人で洞窟に辿り着いた時、タロちゃんが入りたくないとゴネだす。
無理やり引っ張っていく手もあったが、そこでシゲちゃんは名案を思いつく。
笑っている顔を見ていない僕を連れて先に入り、タロちゃんには後からこいというのだ。
承知したタロちゃんを残して洞窟に入ったシゲちゃんは、怒っているような顔を見て驚く僕に、
『よかった。まだ怒ってない』と言って安心させる。
そう言われればそう見える顔だったから。
当然僕は、前にシゲちゃんたちが見にいった時の顔のままだと思った。
しかし、約束通り後から入ったタロちゃんにとっては、まさしくそれは笑っていたはずの顔が怒った後の顔だったのだ。
そして悲鳴を上げて逃げ出す。
ここまでは計画通りだったのに、まさか洞窟から飛び出して崖から転落してしまうほど、タロちゃんが怯えてしまうとは思わなかった。
怖くなったシゲちゃんは、自分のイタズラだったことを誰にも言わずに、次の日こっそり仕掛けを片付けに行った。
僕が笑っている顔を見たのは、その後だったのだ。
そう言えば昨日、シゲちゃんは僕より先に家を出ていた。懐中電灯も見あたらないはずだ。
なんてこった。シゲちゃんが全部。全部やっていたのか。

僕は呆然として説明に聞き入っていた。
「笑っている顔の塗料が古かった時点で、怒っていた方が張り子なのは間違いないわ。
 そしてその張り子を見て、 『どうってことない。こないだと一緒』なんて言ったシゲちゃんが、
 その仕掛けを知っているのも間違いない。
 もし春に見たという顔も、その時点ですでに張り子だったとしたら、
 同じ顔を見たことになる、タロちゃんの過剰な反応に説明がつかないしね。
 あとは推理を広げれば簡単だわ」
先生は黒板に点を三つ、カン、カン、カン、と書いた。
「ゆ・え・に、犯人はシゲちゃん。この点三つのマーク∴は、もう少し後で習う記号なのよ」
チョークをそっと置いた先生が静かにそう言った。
その記号も、チョークを置く指も、眉毛の上に揃えられた髪も、その時の僕にはなにもかもカッコよかった。
見とれる僕に、不思議そうな顔をして先生は首を傾げた。
太陽はゆっくりと高く昇って行き、教室に伸びる陽射しは、机や木の床から少しずつ引いて行った。

その後、僕は算数の続きをやった。
同じ問題なのに、教えてくれる人が違うだけで、こんなにも楽しいなんてなんだかおかしい。
せっせと問題を解く僕のそばで、先生は鶴を折っていた。
そして、いくつか数がまとまると立ち上がり、窓際に掛けた千羽鶴にまた仲間を増やすのだ。
それをずっと繰り返している。
僕は、いつかは夏休み学校の子どもたちの風邪が治って、ここが二人だけの空間でなくなることも、そして、朝が昼になり、それから午後になるように、夏もいつかは終わり、僕がここを去る日がくることも、信じたくなかった。
だから、今日が先生に出会って何日目なのか数えたことはなかったし、その毎日はふわふわとした夢の中にいるようだった。
一体いつからほかの子どもたちが風邪を引いているのか、考えたことはなかった。
先生の時どき見せるぼんやりした、そしてどこか哀しい表情も、その奥に隠れたもののことも、理解しようとはしなかった。
ただひたすら僕は問題を解いた。歴史を知った。夏の中にいた。

「よく出来ました。じゃあ今日はここまで」
先生が僕の答案を見てそう言った。もうお昼過ぎだ。夏休み学校の時間もおしまい。
僕は帰り支度をしながら、なんとなく口にした。
「先生。怒ったふり、すっごく上手かった」
本当だった。近づいてきた時、絶対叩かれると思ったのだから。
それを聞いて先生は、あはっと笑った。とても嬉しそうに。
「ありがとう。驚かせてゴメンね。でも、迫真の演技じゃないと意味なかったから。
 錆付いてると思ってたんだけどな。私これでも役者を目指し……」
きゅっ、と口が閉じられた。
顔が一瞬強張り、そしてこくんと喉が動いた後、先生は目を伏せたまま声もなく笑った。
風が吹き渡るどこまでも高い空の下で、ほんのひと時僕の前に覗いた先生の夢は、ゆっくりと閉じられていった。
それは、どうしようもなく繊細で、綺麗だったけれど、
きっと、いつまでも見続けてはいけないものだったのだろう。
コン、コン。
咳が聞こえた。
どこか遠くから聞こえた気がした。
でも、目の前で先生が口を押さえている。とても落ち着いた顔をしていた。
「私も」
ただの咳払いではなかった。少しおいて、先生はまたコン、コン、と咳をした。そしてゆっくりと顔を上げる。
「ゴメン。私も風邪を引いたみたい。うつるといけないから、明日からお休みにしましょう」
そんな。そんなのはいやだ。風邪なんかへっちゃらだ。だから休みなんて言わないで。
そんなことを口走る僕を押しとどめ、先生は目を細めて言う。
「駄目。悪い風邪なのよ。治ったらきっと、世界史の続きを教えてあげるから」
だだをこねる僕に、先生は諭すように肩に手を置く。
「今日はあなたも顔色が悪いわ。あなたも少し休んだ方がいいみたい」
そんなことない、そう言って飛び跳ねようとして、グラッと膝が落ちる。
だめだ。やっぱり朝から調子悪い。風邪なんかじゃないのに。
悔しかった。もう二度と先生と会えないような気がした。
顔を背け、またコンコンと言ってから、先生は僕の目を見る。

「あなたが始めに洞窟に入った時、不思議な幻を見たわね。赤い着物がヒラヒラしてるのを」
終わってしまったはずの事件のことを、急に言われて戸惑ったけれど、なんとか頷く。
「怖い怖いと思う心が生んだはずの幻なのに、
 まったく関係がない赤い着物の幻なんて、どうして見たんだろうと、あなたは思った」
そうだった。どうして赤い着物なんだろうと。
でも、結局洞窟の奥には隠れられる場所もなく、誰もいなかったのだから、ただの幻には違いない。
そんな僕に、先生はゆっくりと首を振る。
「この村ではね、若くして死んだ女の子には、白い経帷子ではなくて、赤い着物を着せて弔うのよ。
 その子の嫁入りのために貯めていたお金で、残された親が最後のお祝いをしてあげるの。
 晴れのない袈なんて、あんまり可哀相だもの。
 もっとも、今はもうしていない、大昔の風習だけれど。
 そして、あの洞窟のある山は、死者の魂が惑う場所として恐れられていた所なの。
 即身仏になったお坊さんは、それを鎮めるために入山したと伝えられているそうよ」
なんだか変な気分だ。僕が見たものは、ただの幻ではなかったのだろうか。
「いいえ、幻よ。もうこの世にはいない。でも、あなたはそれを見る」
先生の目が、吸い込まれそうに深く沈んだような輝きで僕の目を捉える。
「あなたは、誰にも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。
 それはきっと、あなたの人生を惑わせる」
唇がゆっくりと動く。滑らかに、妖しく。
「それでも、どうか目を閉じないで。晴れの着物を見てもらえて嬉しかった。
 そんなささやかな思いが、救われないはずの魂を救うことがあるのかも知れない」
僕はゴクリと唾を飲んだ。それから二回頷いた。何故か涙があふれ出てきた。
先生は「さようなら」と言った。
僕も「さよなら」と言った。
ふらふらとしながら教室を出て、廊下を抜け、階段を下り、下駄箱で靴を履く。
そして校庭に出て、少し歩いてから振り返る。
二階の教室の窓には先生がいる。出会ったころのままの笑顔で。
その隣には千羽鶴が揺れている。千羽にはきっと足りないけれど、たくさんたくさん揺れている。

先生が手を振る。僕も手を振る。
そして、出会ってから一度も、先生が学校の外に出ていないことを思い出す。
カンカンと太陽は照りつけているのに、校舎の古ぼけた瓦屋根がやけに色あせて見えた。
坂を下りて行くと、だんだん学校が見えなくなる。僕は手を下ろし、畦道を通り、森へ向かう。
鎮守の森は、いつになく暗く湿っている。
真っ暗で、夜そのもののような木のアーチを抜け、黒い土の道を踏みしめる。
頭がぼうっとしてくる。気分が悪い。
神社の参道の前を通る。いつもは通り過ぎるだけなのに、何故かふらふらと入ってしまう。
ギャギャギャギャギャと、鳥の泣き声がどこからともなく響く。
お賽銭箱に、ポケットに入っていた十円玉を投げ入れる。チリンという音がする。僕は手を合わせる。
先生の風邪がよくなりますように。みんなの風邪がよくなりますように。
そして参道を戻る。鳥居の下をくぐる。そう言えば、前に通った時にはくぐらなかったことを思い出す。
なにかが頭の中を走りぬける。時間が止まったような気がする。
いや、違う。止まっていた時間が、今動き出したのだ。

 
ぐるぐる回る頭を抱えて森を抜け、どうやって帰ったのかよく覚えていないけれど、次に気がついた時は、イブキの見える庭に面した部屋の中で、僕は布団に入りびっしょりと汗をかいて、ウンウン唸っていた。
熱が出て、僕は二日間横になったままだった。夢と現実の境目がよく分からなかった。
色々なものが嵐のように駆け抜けて行った。
ぬるくなった額の濡れタオルを、時々誰かが換えてくれた。
それはおばさんだったような気もするし、ヨッちゃんだったような気もする。
咳はあんまり出なかった。ただ鼻水がやたらに出た。鼻紙をそこら中に散らかして、僕はふうふう言い続けた。

ようやく熱が引いた三日目の朝、目を覚ました僕の隣にシゲちゃんが座っていた。
「もうほとんど平熱じゃ」と言って、僕からタオルを取り上げる。
横になったまま文句を言う僕と何度か軽口を応酬し、それからすっと黙った。
外は良い天気のようだ。考えると、この村にいる間、雨なんかほとんど降っていない。
ふと、畑の野菜は大丈夫だろうかと思った。

やがてシゲちゃんは、決心したように閉じていた口を開く。そして、あの顔を変えたのは自分だと言った。
僕は知ってたよと言う。驚いた顔。
すべては先生の推理の通りだった。
失敗にもへこたれないシゲちゃんが、あんなにも元気がなかったのは、自分のせいで友だちに大怪我をさせてしまったからだ。
だけど、僕も知らなかったことが一つ。
シゲちゃんは事件の翌日、顔入道の上に貼ったもう一つの顔を剥がした後で、一人で隣町の病院まで歩いて行ったのだそうだ。タロちゃんへのお見舞いだ。
病室のベッドでぐったりしていたタロちゃんは、もちろんシゲちゃんの仕業だってことをもう分かっていて、それでも怒りもせず、変に照れくさそうな顔をして苦笑いを浮かべた。
腰を抜かして逃げ出したなんてこと、恥ずかしいから誰にも言わないでくれと、そう言って頭を掻くのだった。
だからシゲちゃんは、大人に何を聞かれても黙って怒られているんだ。
僕はシゲちゃんがもっと怒られるのが怖くて、自分の仕業だということを隠しているんだと思っていた。
潔く責任を取ることが親分のあるべき姿だと思って、失望をしかけていたのに、シゲちゃんはタロちゃんの心情を考えて、最初からすべてを飲み込んでいたのだ。
やっぱりシゲちゃんは立派な親分だった。イタズラ好きさえなければだけど。
「先生ってな誰のことじゃ」
突然シゲちゃんがそう言った。僕がうわごとで口にしたらしい。
しまった、と思った。なにを口走ったんだろう。
そう言えば、熱を出してる時に先生に会ったような気がする。
ここにいるはずがないのに。でもここにいるつもりになって、先生に話し掛けてしまったのかも知れない。
ああ。すべてに知恵が回るシゲちゃんのことだ。へたな言い逃れは余計なやっかいを生むかもしれない。
僕は観念して、鎮守の森の向こうの集落のこと、そして夏休み学校のことを話した。
自分でももう、コソコソするのは潮時のような気がしていた。
話している内に、気分が晴れやかになっていくことに気づいた。

こんなにも先生のことを、誰かに話したかったんだ。自慢したかったんだ。
そう思いながらシゲちゃんの顔を見ると、怪訝そうな表情で首を傾げている。
「まだ熱があるようじゃ」
シゲちゃんは「鎮守の森の向こうにはなにもない」と言った。
そして「寝とれ」と、僕に取り上げていたタオルを投げてよこし、部屋から出て行った。
僕は狐につままれたような気になり、
どうしてシゲちゃんはまだ嘘をつくんだろうと、イライラしながらまた眠りについた。

どれくらい眠っただろうか。誰かが部屋に入ってくる気配がして、僕は目を覚ます。
襖を閉めて布団のそばにやってきたのはじいちゃんだった。
「鎮守の森の向こうに行ったのか」とじいちゃんは聞いてきた。シゲちゃんから聞いたようだ。
「そうだ」と僕が口を尖らすと、いつになく難しい顔をして、腕組みのまま胡坐を掻いた。
そして、僕の耳は信じられないことを聞いた。
あの集落はじいちゃんが子どものころに恐ろしい病気が流行って、みんなバタバタと死んでしまい、
残った人々も集落を捨てて散り散りになり、今では誰もいない集落の跡だけが打ち捨てられているのだという。
そんなわけはない。だって僕は現にその集落に行ったのだし、現に先生に会ったのだし、現に……
ハッとする。
僕はその時、あの森の向こうの空間には、のどかな山間の集落が確かに存在したけれど、先生以外の人間に出会っていないことに、今更のように気づいた。
校舎の隣の家にいるという先生のお母さんも、僕のほかに四人いるという夏休み学校の生徒も、結局誰一人として見ていない。
でも、本当にそんな捨てられた集落だというのなら、どうして先生はあんなところに一人でいたのだろう。
そして、どうして嘘をついていたのだろう。
分からない。考えていると、また熱がぶりかえしてきそうだ。
「その病気って、なに」
ようやくそれだけを言った僕に、じいちゃんはムスッとしたまま答えた。
「結核じゃ」

結核。
テレビで見たことがある。昔のドラマで、療養所に入っている女性が咳をしていたのが思い浮かぶ。
「肺結核でな。診ることのできる医者がおらんかった」
風邪が流行っているのよ。
風邪が流行って。
咳だ。咳。先生も咳をしていた。どういうことなんだ。
わけが分からず、僕はその言葉を何度も頭の中で繰り返す。
じいちゃんはそんな僕から視線を逸らして立ち上がり、部屋から出て行こうと襖に手をかけてから、思い出したように言った。
「わしらが、顔入道さんの怒った顔を見たのも、そのころじゃ」
もう行くでない。
ピシリ。襖が閉まる。
わけが分からない。いや、僕の頭のどこか隅の方では分かっている。ただ、分かりたくないのだった。僕自身が。
頭を抱えていると、少ししてまた襖が開かれ、今度はおかゆをお盆に乗せてばあちゃんが入ってきた。
僕はばあちゃんにすがるように訴える。
「でも、先生は知ってた。大きなイブキの庭のある家って言っただけで、シゲちゃんって」
ばあちゃんは、はいはいと子どもをあやすように僕の手を掻い潜って、お盆を枕元に置き、
なんでも知っているという顔で、むにゃむにゃと呟いた。
じいちゃんは子どもの時分、音に聞こえた大変なイタズラ小僧で、
近隣の集落のものならば誰でも知っていたというほど、悪名を轟かせていたのだという。
名前は茂春。孫のシゲちゃんは、その一文字をもらったのだそうだ。
じいちゃんが子どもころからこの家の庭のイブキの木は、大きな枝を家の屋根まで伸ばしていたのだと言う。
「やっぱり憑かれちょったな。あやうい。あやうい。取り殺されんで良かった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

ぶつぶつと言うと、「エッヘ」と腰を上げ、じいちゃんと同じように部屋から出て行った。
取り憑かれていた?僕が?
色々なことが頭を駆け回りすぎて、ガタガタと身体が震えた。
そして、知らないあいだに涙が流れていた。

僕の風邪はただの風邪だった。感染性の恐ろしい病気などではなかった。
すっかり身体が良くなっても、僕はあまり外には出なかった。
家にこもって宿題をやり、全部片付けてしまうと、今度は公民館にある図書室で本を借りて読んだ。
シゲちゃんや病院から戻ったタロちゃんなんかが遊びに誘ってきても、あんまり気が乗らなかった。
それでも、ダンボールで作ったスーパーカーに乗り込んで遊ぶ仲間たちを見ていると、
みんなあんまり出来が悪いので居ても立ってもいられなくなり、カッコいいフェラーリを作成して参戦した。
ただぶつけて遊ぶだけなのだが、フェラーリの輝くボディに恐れをなしたやつらが逃げ回るのは気持ちが良かった。
最後はシゲちゃんと一騎打ちになって、とうとう負けてしまった。
シゲちゃんのボディには、『ダンボルギーニ・カウンタック』とマジックインキで書いてあった。やっぱりかなわない。

そんな風に僕は少しずつ元気になっていったけれど、鎮守の森には近づかなかった。
『もう行くでない』とじいちゃんに言われたこと、そして、先生自身に『きてはいけない』と言われたことを、自分への言い訳にしていたのかも知れない。
考えないようにしても夏は終わる。僕にも帰るべき本当の家があり、学校がある。
このまま目を閉じ、耳を塞いだままには出来なかった。ケジメだと思ったのだ。案外律儀な子どもだったらしい。
明日にもお世話になったシゲちゃんの家からおいとまするという日。僕は鎮守の森へ、一人で入っていった。

あいかわらず耳の痛くなるような蝉時雨の中、薄暗い葉陰の下を黙々と歩く。
神社の参道を横目に、道の奥へと足を進める。
雨がほとんど降らないので、柔らかい土についた足跡が汚らしく残っているのが目に付く。

 
みんな僕の足跡のようだった。僕はそれを見ながら思い出す。
あの日、初めてこの森を抜けた時、神社より向こうには誰の足跡もついていなかったことを。
よく考えるとおかしい。
先生が言っていたように、僕らの村と森の向こうの集落との間には、この鎮守の森を抜けるほかに道がないのであれば、人の足跡がたくさんついているはずなのだ。
役場だって郵便局だって、森のこっち側にしかないのだから。
そんな綻びを見つけられないまま、僕は知らず知らずのうちに、この世の裏側に足を踏み入れていたのだろうか。

俯き加減で黙々と歩き続け、暗い木のアーチを抜けると青空が頭上に広がった。
同じだ。緑の畦道。畑。蛙の鳴き声。空を横切るツバメの羽の軌跡。
目の前の光景に一瞬目を細めて、そしてやがて気づく。
畦道に雑草が生い茂っていること。畑にも雑草が生い茂っていること。蛙の鳴き声はずっと小さいこと。
山の中腹に見える民家は屋根に穴が開き、とても人が住んでいるようには見えないこと。
そして同じことが一つ。電信柱も電線もどこにも見えない。
僕はふらふらと畦道を歩く。絡まる草を踏みつけながら坂道の前に着いた。
なだらかに続き、見上げるとその向こうには古ぼけた瓦屋根がある。汗を振り払いながら僕は坂を登る。
途中で振り返り集落を見下ろす。誰もいない。
動くものの影と言えばツバメばかりだ。所々に白い花が咲いている。
僕は広場に着く。校庭と呼ばれて、初めてそうであると気づいたはずの場所は、今はそう言われても分からない。
朽ちた木片が散乱する荒れ果てた広場だった。
そしてその向こう。僕が毎日見上げていた校舎は、黒く変色して酷く歪んでいる。
壁にはいたる所に穴が開き、ささくれ立った木片がギザギザに突き出ている。
向かって左下、小さな母屋があった場所には、焦げたような跡と瓦礫の残骸があるだけだった。
僕は目の前の光景が意味するもののことを考える余裕もなく、
ふらふらと夢遊病のように、玄関口に吸い込まれていった。

中はさらに酷い有様で、煤と穴と木切れの山だった。
下駄箱の残骸の横を通り抜け、靴のまま校舎の廊下に上がる。
蜘蛛の巣を払い除けながら階段に足をかけると、バキッと音がして底が抜けそうになった。

すぐに足を引っ込め、大丈夫そうな場所を何度も体重をかけて確かめながら、一段一段登っていった。
ボロボロの壁に手をついて、手のひらを真っ黒にしながらようやく二階に辿り着くと、僕は首をめぐらせる。
六年生と書いてある白い板はどこにも見あたらない。
ただ朽ち果てた木の床と壁が作り出す、灰色の廊下が伸びていた。
僕はゆっくりと歩き、いつか先生が手を振って迎えてくれた教室へ足を踏み入れる。
その瞬間、クラクラと頭が揺れた。
五つあり、先生がもう一つ運んできてくれたので、全部で六つになったはずの机は、一つもなかった。
ただ木の残骸が、教室の隅に無造作に折り重ねられているだけだった。
教壇には大きな穴が開き、黒板があった場所には煤けた壁だけがある。
なんだろうこれは。なんだろう。いったいなんだろう。これは。
そうだ。ハリボテなのだ。本物の上に被せられたハリボテ。よく出来ている。
これならみんな騙せる。じいちゃんだって、シゲちゃんだって、僕だって。
そしてこれから、それは勝手にすり替わるのだ。
本物の教室には先生がいて、僕の知らない遠い国の物語を話して聞かせてくれるのだ。

……なにも起きなかった。
僕はずっと待っていた。それでもなにも起きなかった。
ふと、窓の方を見た。折り紙の鶴でいっぱいだった窓には、もうなにもぶらさがってはいない。
足を引きずるようにそちらに近づく。
先生がいつも頬杖をついていた窓際に僕も立った。窓枠は腐ったように抉れていて、とても肘をつけそうにない。
僕は先生がいつも、ふいに遠くなったように感じたことを思い出す。
そんな時先生は、いつもぼんやりと窓の外を見ていた。思えば初めて会った時だってそうだ。
何度も先生を呼び、ようやく気づいてくれた時、ぱちんという感じに世界が弾けた。
その瞬間に、僕と先生の世界がつながったのだ。
先生はいつも白い花柄の服を着ていた。清潔なイメージにそぐわない、同じ服だったような気がする。
捨てられた校舎の中で、学校の先生の時間は止まったままだったのだろうか。

いつか珍しく雨が降ったことがあったけれど、鎮守の森を抜けると晴れていたということがあった。
小雨だったから、ちょっと不思議に思ったくらいだったけど、
たとえ嵐がやってきても、あの森の向こうは晴れたままだったのかも知れない。
ジワジワと蝉が鳴いている。どこか虚ろな声だった。
別の世界の気配はどこにもない。もう僕には見えない。見えなくなってしまった。
僕は立ち尽くし、ぼうっと窓の外を見ていた。
先生が見ていたものを、無意識に探していたのかも知れない。目の端に校庭の広場の隅が入った。
先生はいつもそこを見ていた。同じ場所を。あそこにはなにがある?
僕は振り向くと早足で教室を出た。ミシミシと廊下が軋んで嫌な音を立てたけれど、足は止まらなかった。
階段を半分壊すように駆け下り、玄関を出て広場に向かった。

廃材の山をスルスルと避けながら、その隅っこにひっそりと立つ木の根元に走り寄った。
かつて花壇があったのだろうか。黒い土が盛られている一角だった。
その土の上に木の板が一本突き立っている。
それがまるで墓標のように見えて、胸がドキンとした。
板にはなにか書いてあったが、雨で流れたのかもう読めなかった。
僕は木切れを拾ってきて、土を掘り始めた。
真上に昇った太陽が僕の影を地面に焼き付ける。ポタポタと汗が落ちて、それがシュンシュンと土に吸われる。
掘り返された土が周囲に盛られて行く中、木切れの先になにかが当たる感触があった。
膝をつき、両手で土を掘る。指の先に触れたものは、頭をよぎったような白い骨ではなかった。
ボロボロになった布袋が、土を被って現れてきたのだ。
口のあたりをつまみ上げ、土を払おうとした途端にボソボソと布袋の底が抜けて、黒く汚れた中身が地面に落ちた。
それは折り紙だった。折り紙の鶴だ。ぐしゃぐしゃになり、ぺったんこになり、土にまみれて色あせた鶴だった。
その時、こみ上げてきたものに耐えられなかった。

誰もいない廃墟のような校庭に立っていた。
幻も見えなかった。なに一つ見えなかった。どうしてもう見えないんだろう。
けれど僕は想像する。そこにいるつもりで想像する。
僕のそばに先生が立っている。透明になって立っている。僕の肩に手を置いている。
困ったような、はにかんだような、優しい顔で。
風が顔に吹き付けて、それは消える。綺麗に、跡形もなく。
涙を流しきって、僕はぼやける視界で手元を見る。
千羽はいないけれど、千切れかけた糸にぶら下がってたくさんの鶴が揺れていた。
その中に、僕は不思議なものを見つけた。
それは不格好に歪んでいる鶴で、胴体は傾き、顔なんか横を向いてしまっている。
けれど一つだけ、たった一つだけ格好いい部分があるのだ。
僕は手を高く上げ、その鶴の、戦闘機のように端がくいっと立っている羽を空に翳して、切っ先が風を切る音を聞いた。
夏の終わる匂いをかいだ気がした。

そっと、辞典を閉じる。
小さなころの記憶が夢のようにあふれて、そして消えていった。
辞典を本棚に戻し、大学の図書館にいたことをようやく思い出す。
柔らかい床が色んな音を吸い取って、あたりはやけに静かだ。
少しのあいだ目を閉じて、ゆっくりと大学生の自分を取り戻す。
ふと、シゲちゃんはどうしているだろうかと思った。随分会っていない。相変わらず親分をしているだろうか。
洞窟の顔入道も笑ったままだろうか。
その奥の、誰も入れない密室の中にいるというお坊さんの即身仏は、今も山に彷徨う死者の霊を弔っているのだろうか。
あのころのことを思い返すと、不思議なことがまだいくつかある。
先生の年代であれば、高校から大学へという学歴がおかしいのだ。
おそらく、高等女学校から高等女子師範学校か、女子大とは名ばかりの私立学校へ上がったのではないかと思うのだが、そのころの僕の思っていた、高校、大学という言葉で通じていた、というのがよく分からない。

ほかにも時代的な素地が違うため、きっと噛み合わない部分があったはずなのだ。けれどそんな覚えはない。
会話はスムーズだったと思う。
もしかすると、交わしたと思っていた会話さえ、本当は存在しなかったものなのかも知れない。
ただつかのま、うつろな世界のはざかいで、魂が触れあい、重なり合い、そして響きあっただけなのかも知れない。
その小学校最後の夏休みが終わり、新学期が始まった時、
僕は算数の成績がぐっと上がっていて、担任の先生を驚かせた。
もっと後で世界史を習った時には、もう忘れてしまっていたけれど。
ふ、と笑いが漏れる。
本棚に戻した辞典の背表紙を見つめる。
全く関係のない調べ物をしていたのに、
ふと目に止まった頁に、長い時間を隔てた最後の謎の答えがあっけなく転がっていた。
そしてそれは、僕をひと時の追憶の彼方へと誘ったのだ。

【結核】 学名tuberculosis
結核菌によって引き起こされる感染症。呼吸器官やリンパ組織、関節や皮膚など発祥する器官は多岐にわたる。
なかでも代表的な肺結核は日本においては古来より労咳と呼ばれ、罹患者も多く死病として恐れられていた
…… 中略 ……
医師の使用する略称であるTB(学名から)が民間においても広まり、隠語的にテーベーと呼称されることも……

あの日の教室で、アテネをアテナイとしないのに、テーベだけをテーバイと書き直した先生の重く沈んだ背中が、昨日のことのように瞼の裏に蘇る。
あの時の先生は、自分が幻であることを知っていたのだろうか。
そして幻を見ている僕のことを、どう思っていたのだろう。
あれから何度か別の年に、鎮守の森を抜けてあの廃校に足を向けたことがある。
けれどただの一度も、先生には会えなかった。

 
また会いたいかと言われれば、今では躊躇してしまう。
先生に言われたとおりに、目を開けていられたかどうか不安なのだ。
あのころの僕が思っていたよりもずっと、あまりに底知れない悪意がこの世には満ちているのだから。
中学三年生のころ、あの廃校が取り壊されたという話を聞いた。
大規模な工事で、大きな道が抜けたらしい。あの捨てられた集落を飲み込んで。
僕がその場に埋め直した折り鶴たちも掘り返され、そしてもっと深く埋められてしまっただろうか。
僕はあのボロボロの折り鶴の中に、埋もれるようにして一枚の紙が混ざっていたことを思い出す。
それはどこかで見た筆跡で、詩のようであり、誰かへ宛てた手紙のようであった。
僕はそれだけを持ち帰って、やがてその紙で折り鶴を作った。
実家に帰った後、しばらく僕の部屋の窓際に吊されて揺れていたけれど、いつの間にかどこかへ行ってしまった。
幼き日の記憶のつどう、リンボ界のどこかへ。

目当ての本を探し当て貸出しの手続きをしてから、それを小脇に抱えて図書館を出ると、顔が切られるような冷たい風が吹き付けてきた。
真冬だった。
すっかり夏のような気がしていたのに。
僕は苦笑して、コートの襟を寄せた。

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怖い話まとめブログ/師匠シリーズ「先生」より転載させていただきました。

 
 

『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて

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ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん

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  • B!